短期集中連載
【真田丸ゆかりの地めぐり】
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歴史好きにとって
高知県の旅行は・・・・たまりまセブン!


幕末系、戦国時代系(長曾我部氏&山内一豊)・・・・・。
それに興味ないけど自由民権運動系だとか、とても一泊二日ではですね
網羅できんのが高知県なんだと思うんですよね。
では行ってみましょう!


さて今回の
【真田丸ゆかりの地めぐり】は!




長曾我部盛親の登場です!
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【長宗我部盛親】(ちょうそかべもりちか)
長宗我部氏第22代当主。(戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主)
四国全土を統一した長宗我部元親の四男。
関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。
しかし、兄・津野親忠を殺したことをとがめられ、領国を没収され浪人となる。
のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に大坂城に入城。
大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが敗北しました。


【真田丸】では、ちょっと「おとぼけビーバー」なキャラですね。
なんだか可愛い感じ、こういう長曾我部盛親もいいかもですねえ・・・・・・。
さるるの長曾我部盛親のイメージといえば




長曾我部盛親が主人公の
【戦雲の夢】
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盛親のお父さんは長曾我部元親。
四国全土を制覇した、まさに戦国時代の英雄です。
しかしそんな元親も豊臣秀吉の物量と黒田官兵衛の作戦には太刀打ちできず
赤子の手をひねるように制圧され、土佐一国のみを安堵されます。

当時の政治、経済、軍事は京が中心であり土佐はあまりにも当時からすれば
あまりに古代であったという文献が残っています。
現在のように航路も道路も整備されていなかったわけですからしょうがないですね。
結局、息子の盛親が西軍についたのも正確な情報が土佐までに届かなかったこと。
結果的に東軍に味方しようと密使を送ったけどバレてしまい(!!)
なし崩し的に西軍に加担しました。


やはり地政学的な優位は
その才覚だけでは覆すことはできなかったようです。




高知市内から桂浜に向かう途中に偶然見つけた。
盛親のお父さんの元親!(名前、似ててややこしいねぇ。)
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うお、カッコええ!
【長曾我部元親】(盛親のお父さん)の像や!
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この銅像の前で若い娘さん達が写真を撮りよったん。
ほんまに若い娘さんよ?なんやなんで長曾我部元親で興奮しとるのか・・・・?
さるるが尋ねてみたらばね、ゲームで美男子として登場するんだと。
なんかキャーキャー言うとったよ?時代よねえ?


このお父さん(元親)は英雄やったんやけど
後継者として考えていた息子(信親)が戦死したら愚物になってねえ・・・・・・。
家中(後継者争い)を混乱させたまま死んでしまったんよ。
だから兄弟で骨肉の争い、殺し合いまでせにゃならんようになったんよ。
そのうち関ケ原でようわからんまんま西軍やし、なんの活躍もせんうちに終わってもうて
徳川家康に謝るけど「おまえお兄ちゃん殺して家督を継いだ悪い奴や!」言われて
死罪になりそうなのを井伊それがしに助けてもらってね、蟄居で済んだけど
名前まで捨てさせられて京都で寺子屋の先生をして平和に暮らしていたんですよ。
それでも生活は貧窮して・・・・盛親はこんな生活も悪くない、そう思い始めていたのにね
再雇用されなかった家臣たちが乞食同然になっていることに胸を痛めて
京都を脱出して大阪城に入城したんよ。



おとぼけビーバーやけど
かなりの苦労人です。
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長曾我部家の強さの秘密・・・・。
それは【一領具足】という軍団編成にあるといっていいでしょう。
現在では珍しくありませんがようは【徴兵制】です。
普段は田畑を耕していますが、戦争がはじまると武士として戦いに行きます。
これがまた強かったんですけど関ケ原の合戦以後は解体され、他家に散り散りになります。
大阪夏の陣ではかつての家臣同士がお互い敵として戦うという悲劇も。(涙)



【長曾我部盛親の最後】
大阪夏の陣で大活躍するも、豊臣方の敗北に終わります。
京都八幡京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送されました。
その後、盛親は京都の大路を引廻され、京都の六条河原で斬られます・・・・。(享年41)
徳川方に捕らえられ白州に引き出された際、自刃もせずに捕らわれたことを
徳川方の将兵が蔑むと「命は惜しい。命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」と言い、「出家するから」とまで言って命乞いしたけど、盛親の胸中を知る徳川家康はこれを許さず死罪を言い渡しました。




桂浜へ向かう途中にある
【一領具足の墓】
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一両具足 供養の碑
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浦戸城明け渡しを拒んだ旧臣の一領具足たちは
重役家臣団と対立して戦い、このとき討ち取られた273人の首は塩漬けにされ
大阪に送られ、胴体は石丸塚として一領具足供養の地に葬られました。
ん~塩漬けってそんなん怖い時代やねぇ・・・・・。


山内一豊が入国してから
この一領具足たちは【下士】という武士であって武士でない身分に落され
山内一豊が連れてきた武士は【上士】として差別階級が生まれます。
しかし、この差別階級が約400年後・・・・・。




幕末を変える原動力となります!
(一領具足の子孫たち)
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長曾我部家の再興もままならず
盛親は失意のうちに斬首、子孫もことごとく殺されてしまいました。
しかしながら、長曾我部家の創設した一領具足の子孫が幕末に活躍し
徳川幕府を倒すことになるのです。
歴史ロマンやねぇ。


ちなみに
子孫は皆殺しになったはずですが


平成27年に蓮光寺の400年法要の際に、長曾我部の血を引くという人物が現れます。
盛親の物と伝わる(あぶみ・馬具)が蓮光寺には片方だけあったのですが
その人物はもう片方のを持ってこられたそうです。(!)
形状・配色共に一致、100年ぶりに双方が揃うことになったのです!
子孫を称する人物は、祖父が100年前の300年法要で寺から譲り受けたものとしていますが
さてさて・・・・・真実はどうなのでしょうか?(真田幸村生存説もあるしねえ!)


司馬遼太郎の【戦雲の夢】では・・・・
もし興味のある方はぜひ、ご一読くださいませ☆彡



≪真田丸ゆかりの地シリーズ≫

【真田丸】のオープニング映像に使われたお城

後藤又兵衛のルーツは姫路だよ!
お母さん(淀殿)と代に翻弄された秀頼・・・・・。
 
大阪夏の陣で徳川家康は死んでいた!?

真田幸村と徳川家康が陣取った場所!

真田のロマンは抜け穴にあり!

真田丸の真実の姿は!?

大阪五人衆、毛利勝永のゆかりの地!

大阪五人衆、長曾我部盛親のお父さんと一領具足たち

真田幸村、雌伏の14年間!

キリシタンの布教と宇喜多家再興を夢見た男!

真田幸村、落命の場所へ・・・・・!