短期集中連載
【真田丸ゆかりの地めぐり】
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高知県といえば山内一豊であったり坂本龍馬だったり
徳弘正也(漫画家)だったり・・・・・あ、広末涼子も高知県でしたよね!
いや~デビュー当時は本当に胸を稲妻で貫かれたわ♪
いやそれはさておき高知県といえば・・・・ほら、今話題の真田丸の五人衆なん!
さるるも正直、この五人衆は好きさ!




さるるの高知県(日帰り旅行)も中盤戦!
さあ行ってみましょう!!
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大阪五人衆(左から)
毛利勝永、後藤又兵衛、真田幸村、長曾我部盛親、明石全登
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そうそう、だからその五人衆が
なんで高知県がゆかりの地かというとですね?
五人衆のうち、毛利勝永と長曾我部盛親が高知県に関係あるのです!
これって意外に知られていないですよね!




毛利勝永
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関ケ原の合戦の時
毛利勝永は西軍として安国寺恵瓊の指揮下で陣を敷いていましたが
別に活躍もなく合戦は終わってしまいました。
ちなみに本国(九州の小倉)は父親が守備していましたが黒田官兵衛に奪われます・・・・・。
戦後は加藤清正、次いで山内一豊(高知県・土佐)に身柄を預かられます。
(真田幸村が九度山に蟄居させられるみたいなものですね。)
とはいえ、山内家とは豊臣政権時代からの友好関係により1000石まで与えられたりと
真田幸村に比べれば天と地ほどの待遇の差がありました。


もちろん、領地を与えたとて友好関係とはいえ
山内家は徳川家康より毛利勝永を監視する役目を仰せつかっているわけです。
結局、大阪夏の陣に参加するために毛利勝永は監視の目を掻い潜って大阪へと脱出します。
毛利勝永が妻子に向かって「俺が大阪に味方したら迷惑かけちゃうね?」って泣いたら
奧さんが「あなたが心置きなく大阪に行けるように子供と死にます!」と言ったことが
銃後の守りとして【婦女鏡】(明治20年)に美談として載っていたそうです。




土佐に住んでいた時は高知城の近隣だったみたいで
登城することもあったそうです。
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高知城といえば内助の功!
戦国時代の夫婦愛が成したお城ですね!
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高知城から市内を一望できます。
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【土佐(高知県)から大阪までどうやって脱出したか?】
実は土佐藩主・山内忠義と毛利勝永は衆道(男色)の関係(肉体関係)があり
命をかけて助け合う約束をしていた、と主張して徳川側に応援に行きたいと堂々とお願いします。
居留守役の山内康豊は「まあ息子とか人質にしてくれたらいいよ?」と言ったらば
毛利勝永は人質にするはずの息子と一緒に大阪へと脱出したのです!




そうか、男色だったか・・・・・。
(まあ当時は武士のたしなみっぽいけどね?)
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ちょっと歴史に詳しい人はですね
「真田幸村より毛利勝永の方が活躍したんだよ?」って言われますね。
そういう文献もあるそうですよ。




【大阪冬の陣での活躍】
兵4千を率いて徳川家康本陣の正面、四天王寺南門前に布陣した。戦闘が始まると、本多忠朝小笠原秀政忠脩父子を瞬く間に討ち取り、続いて浅野長重秋田実季榊原康勝安藤直次六郷政乗仙石忠政諏訪忠恒松下重綱酒井家次本多忠純といった部隊を撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せた。しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。退却においても勝永の指揮ぶりは水際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝細川忠興らの攻撃を防いで、城内へ撤収した。
8日、その最期は、守護していた豊臣秀頼の介錯を行った後、息子である毛利勝家、弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉で自害したという。(享年37) ← さるるより年下かよ!( ゚Д゚)




山内一豊と千代のお話はいつか
【功名が辻ゆかりの地シリーズ】で・・・・・。
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≪真田丸ゆかりの地シリーズ≫

【真田丸】のオープニング映像に使われたお城

後藤又兵衛のルーツは姫路だよ!
お母さん(淀殿)と代に翻弄された秀頼・・・・・。
 
大阪夏の陣で徳川家康は死んでいた!?

真田幸村と徳川家康が陣取った場所!

真田のロマンは抜け穴にあり!

真田丸の真実の姿は!?

大阪五人衆、毛利勝永のゆかりの地!

大阪五人衆、長曾我部盛親のお父さんと一領具足たち

真田幸村、雌伏の14年間!

キリシタンの布教と宇喜多家再興を夢見た男!

真田幸村、落命の場所へ・・・・・!