短期集中連載
【真田丸ゆかりの地めぐり】
イメージ 10





大河ドラマのタイトルになっている【真田丸】
真田幸村といえば真田丸というぐらいドラマや映画の影響で
注目を浴びていますね!



真田丸のイメージは一般ではこんなん。
映画や大河ドラマではこの真田丸が再現されていましたね。




しかしながら!
最近の研究ではこれは間違いであると判明!




これが現在、最新の資料である!
赤丸には寺が集中しているのがわかります。
イメージ 1





多くの絵図では、真田丸は半円形の出城として描かれていることが多かったですが
『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博氏によると
真田丸は半円形ではなく不定形の形の城であったことが判明したました。
(元ネタは歴史ヒストリア)




この寺を要塞化したのが真田丸。
(赤いのがお寺ね!)
イメージ 2




真田丸を設けた目的は、大坂城の補強のための簡易的な出丸ではなく
おびき寄せて打撃を与える「攻撃のための出城」であったと考えられています。
こういう考え方って、近代防衛戦術として通用する考えなんですよね。
当時では先進的な考え方だったとさるるは思います。




星明学園前にある顕彰碑
イメージ 3




ここら一帯には、まだお寺がたくさん残っています。
この壁々が真田丸の一部だったわけですね。
イメージ 5

イメージ 4




後藤又兵衛も大阪城南の脆弱性を感じ
真田幸村より先に要塞を建築していましたが結果、後藤又兵衛は
要塞を真田幸村に任せることになります。
諸説ありますが後藤又兵衛は「真田と後藤が争うことに利はあらず」と
大人の対応をしたと伝えられています。
なんせ真田幸村が後藤又兵衛が準備してたの撤去しちゃったもんねえ。
ここで不仲説が大阪方に蔓延することを防ぎたかったのでしょう。
(ここらへんは大河ドラマでは描かれていませんでしたね。)




大人じゃ~ん?
(「軍師官兵衛」の又兵衛よりコッチ又兵衛の方が好き♪)
イメージ 6




軍事学的に攻撃する側は
堅牢な防御側の3~5倍の兵力が必要とされます。
イメージ 7




【大阪冬の陣、始まる!】

豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、幕府軍は大坂城を包囲した。真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直松倉重政榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。真田丸には真田信繁指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成後藤基次長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。

徳川家康は本陣を住吉から茶臼山陣城(大塚城)に、徳川秀忠は平野から岡山に移した。家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。 真田丸の前方には篠山(ささやま)と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害した。

大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚した。南条は城内で切腹させられたが、豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。

前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。前田勢の先鋒本多政重山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行う。前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとした。
前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。

これらの惨状を知った家康は退却を命じた。
しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎようやく完了した。家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。



【戦術的】大勝利!
イメージ 8



戦いにの種類には
【戦術】【戦略】【大戦略】の3つに大別されます。
うまく説明する自信チョットないんだけど
会社で例えるなら・・・・・。



【戦術】  → 現場のノウハウ(術)

【戦略】  → そのノウハウ(術)を統括する方策

【大戦略】 → その方策の上位概念としての経営哲学



大阪冬の陣は確かに豊臣方の【戦術】的には勝利でしょう。
しかし浪人衆を束ねる豊臣政権の首脳の【戦略】はどうであったでしょうか?
さらに徳川家康に敵対してしまった時点で【大戦略】として敗北決定です。
(アメリカの挑発に乗って開戦してしまった日本に似てる・・・・。)


大阪城周辺で
いくら勝利を重ねても徳川政権を打倒することはできません。
「徳川家康が死ねば豊臣恩顧の大名が寝返る・・・・。」は希望的観測でしかなく
それは大戦略でも戦略でも戦術ですらなく、ただの妄想です。
(大東亜戦争末期の日本がそうでしたね。)
仮に数名の有力大名が寝返ったところで、徳川政権を打倒は不可能でしょう。
すなわち、大戦略的な視点からすれば豊臣方に残された道は
やはり徳川家康に従属するしかなかったのです。


それを理解できていたのは終始、家康を支持した
秀吉の妻(ねね)だったというのが何とも言えない皮肉ですねえ・・・・・。
さすが夫を天下人に導いた内助の功・・・・・!!
(ねねは生涯、徳川家康に大事にされました。)





というわけで
真田丸(後編)に続く!
イメージ 9


≪真田丸ゆかりの地シリーズ≫

【真田丸】のオープニング映像に使われたお城

後藤又兵衛のルーツは姫路だよ!
お母さん(淀殿)と代に翻弄された秀頼・・・・・。
 
大阪夏の陣で徳川家康は死んでいた!?

真田幸村と徳川家康が陣取った場所!

真田のロマンは抜け穴にあり!

真田丸の真実の姿は!?

大阪五人衆、毛利勝永のゆかりの地!

大阪五人衆、長曾我部盛親のお父さんと一領具足たち

真田幸村、雌伏の14年間!

キリシタンの布教と宇喜多家再興を夢見た男!


真田幸村、落命の場所へ・・・・・!