先日、安倍晋三元総理の国葬が執り行われた際の友人代表で弔辞を読まれた菅前総理の言葉に大変心を打たれました。
現場で実際にその弔辞を聞かれた方はもとより視聴された多くの方の心に響いたと思います。
おそらく普通以上に葬儀参列の経験が多い私ですが、弔辞で会場に拍手が巻き起こるという光景は初めて目にしました。
人はコミュニケーションの手段として言葉を用いますが、これが他の動物以上に高度に進化した結果、言葉で表さなくてもわかる事まで言葉に頼り、また言葉により人を傷つけ悲しませる事や諍いを起こしたり誤解を与えたりします。
言語は理性能力による産物ですが、自分が感じている事を理性能力でのみ説明するという事はとても難しい事です。
だから、同じ語彙でもその語彙に感情を乗せて初めてそれは伝わり、語彙は言葉となり、コミュニケーションとして成立するのであり、感情の乗らない語彙はただの音として虚しく響き、そこに人と人の心が伝わり合う健全なコミュニケーションは生まれないように感じます。
LINEのやり取りでも同じで、声色が伝わらないからこそそこにはお互いの感情を配慮するようなな温かな言葉が必要じゃないのかなと思うのです。
たとえ、叱責であったとしても、主張であったとしても・・・「語彙の羅列」は冷たく響き渡るだけに感じます。
人間はコミュニケーションのツールとして「言語」を持ってしまったが故に、言語以外でのコミュニケーション能力が極端に低くなってしまいました。
だからといって、今更言語を捨てる事は出来ません。
全ての動物がコミュニケーション手段を独自に持っていますが、言葉に頼り言葉だけで全てを済まそうとする人間は一番コミュニケーションが下手な動物なのかもしれません。
言葉とは本来、自らの感情を乗せてこそ伝わる・・・そういう事を菅前総理の姿から改めて教えて頂いたように思います。
フジテレビの国葬中継で倫理学者の先崎教授がコメンテーターとして出演されていましたが、その際のコメントが非常に印象的でした。
一方で反対デモが起こり、(社会を含む)相手の批判や批評、正論、相手を攻撃するだけの言葉ばかりが並ぶ昨今で自身の感情を表現する言葉が、この瞬間に日本中に流れたことに「あぁ、こんな言葉がまだ日本にはあった」と感じさせられた。
というような内容をおっしゃっていました。
このコメントに集約されているように、菅前総理の弔辞はご自身の感情「だけ」を表現する言葉が綴ら、感情がそこには溢れていました。
言語を用いないと意思疎通は図れません。
けれど言語で意志や感情を「説明」する事は出来ても、それだけでは「伝わり」ません。
「伝える」ためには言語+αが必要です。
言語という理性能力に頼り過ぎず、けれど、上手に用いる・・・そのバランスがとても大切だと感じます。
「人はなぜ言葉 選んだの・・・」
平原綾香さんのMoldauの歌詞がとても心に刺さります。