「ゆるす」という言葉について、私はこの「許す」と「赦す」を混同していたような気がします。

 

尊敬する芳村思風先生も人は「ゆるしてほしい」と思っている、だから「ゆるしてあげる努力をする」とおっしゃっていますが、おそらく先生の「ゆるす」という言葉は、「赦す」ではなく「許す」だったのではないかと思います。
(先生に確認しますので、間違っていたら後日修正します)

 

 

言葉としては

赦す→罪や過失を咎めない事にする、義務を免責する

許す→そのまま受け止める、そうする事を認める・・・等

 

けれど、昨今よく目にする「許す心」という中に、何より私も含めた個々人の解釈においても「赦す」事までを含んで、それが許す事であると混同しているような気がしました。

私自身も「赦せない事を許さない自分」に大きな葛藤を持っていたように思いますし、「赦せない事を赦せ」と強要したり・・・そんな混同をしていなかっただろうかと思いました。

 

「許す」事は努力できても「赦す」事は努力では出来ません。

つまり我々人間ごとき(あえて「ごとき」という言葉を使います)が「赦せなくてもいい」し「赦さなくていい」と思いました。

なぜなら、「赦されない」という十字架を背負うからこそ自分の犯した罪の重さに逃げずに向き合う事が出来ます。

多かれ少なかれ又大小はあれど、私も含めて皆「罪」を持っています。

人間が不完全である以上、罪や過失を一度も犯した事のない人間はいません。

大事なのは、その回数や大小ではなく、それらをどれくらい「赦されない事」として自らの心に刻むことが出来るかではないでしょうか。

それを心に刻む事の出来ない人は、周りが勝手に自然と離れてしまいます。

 

この「ゆるす」という行為について改めて考えるきっかけをくれたのは現在アメリカに在住している妹でした。

現地の教会で聖書のお勉強をしている話になり、そこからキリストの話をしている中でふと思った事です。

なので、信仰が厚い方からすると間違ったことを書いているかもしれませんが、個人のブログなので以下私の解釈としての捉え方なのでご了承下さい。

 

イエス・キリストが偉大であり、偉大たらしめた(人間以上となった)のは「赦した人」だからではないでしょうか。

 

そう考えると『神』か『上』のみが赦す事又その権限を与えられているのかもしれません。

恩赦という言葉がそうであるように。

「赦せない事」を「どうして赦せ(許せ)ないないんだろう」と悩むこと自体が無用に思います。

交通事故や自身の過失でないところで大切な人を失ったご遺族の方等は「赦せない」のです。

 

この二つを理解したら「許せる事」の多さもわかったし、

その人にとっての「赦せない事を赦せ(許せ)」という人間になってはならないし、

「許せない事」を「赦せない事」にすり替えてもよくないし、

「赦す」と「許す」を混同して都合よく自分にも他者にも使いたくないなと思いました。

 

 

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