久しぶりに芸術鑑賞をして参りました。
一番長く継続していたお稽古が絵画で、幼稚園の頃から大阪を離れるまでの15年ほど続けており、「絵を描く」「絵で表現する」「絵を見る」「絵に触れる」という事が自分の身近にありました。
ここ最近なかなかそういう時間が取れなかったのですが、ご縁を頂いた社長様からお勧め頂いた大原美術館に行って参りました。
大原美術館と言えばモネの「水蓮」や、エル・グレコの「受胎告知」が有名ですがその中で個人的にドキっとしたのがワシリー・カンディンスキーの「尖端」です。
カンディンスキーは抽象絵画の先駆者と言われていますが、自然の再現から抽象絵画へと移行したきっかけが、ある日スケッチを終えて自宅に帰ると見た事のない何とも表現し難い美しい色合いを放つ絵がそこにあったそうです。
全く見覚えのないその絵を不思議に思い眺めていたところ、カンディンスキーはそれは自分が書いている途中の絵が横向きになり倒れたものであることに気づきます。
それが抽象絵画に移行するきっかけとなったと言われています。
その話を聞いた時に、物事に対してももしかするとカンディンスキーの絵のように違う角度から見たら全く感じ方が変わるような気がしました。
この絵も上下左右を逆にしてもまた違う絵に見えます。
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そして、モネの「水蓮」はやはり美しく、離れてみれば見るほどそこにモネが見た景色が広がるような不思議な時間を感じます。
水面だけを描いていますが、その水面に映りこむ柳の姿や雲、太陽の光等、描かれていない部分にどんな景色が広がっているのかを水面から感じさせてくれます。
その日どんなお天気だったのか、風はどうだったのか・・・・まるで自分の前にモネが見ていたであろう水蓮の池とその池を取り巻く情景が広がるような・・・そんな不思議な感覚になります。
生物の中で人間だけが文化を育み芸術を持っています。
芸術家は皆、自然こそが最高の芸術と捉えていましたが、モネの水蓮を見た後に、大原美術館の中庭に咲くモネのアトリエから株分けされた水蓮を見ると自然が持つ色はどんな絵具を使っても完璧に再現できない美しさを感じます。
モネも水蓮を描きながらも、その自然の美しさに敬服していたのかもしれません。
※モネのアトリエから株分けされた水蓮
草花を描く時に、当たり前の事ですが本物の草花以上には美しく描く事が出来なかった事を思い出しました。
自然は本当に美しく、それ自体が最高の芸術だと・・・そんなことを感じた時間でした。