「私は神の存在を証明できる。」


 パウロ・ソレンティーノ監督の『ヤング・ポープ』というドラマで、一人の娼婦が語った言葉だ。


 「神の存在の証明。。。それは目、あなたの目よ。」


 ドラマの主人公はその言葉に拍子抜けしたようだが、僕はうーんと唸ってしまった。


photo @daisen.fujishima


 神の存在の証明は不可能、というのが現代の常識だ。古今東西の様々な哲学者や神学者、科学者が、神の存在、あるいは不在について語ってきたが、その実在も不在も証明されてはいない。神の存在、もしくは不在は、人がそれを信じるか信じないかであり、万人に証明する方法はない。


 そしてもちろん、彼女の言葉は神の存在証明にはなってないし、おそらくは客をとる時の常套句にすぎないのだと思う。


 でも、とても詩的だ‥‥。


  ドラマの主人公は、ジュード•ロゥ扮するアメリカ人の架空のローマ教皇だ。だからこの場合、彼女が語る「神」とはキリスト教の神になるのだと思う。ただ、現代における「神の存在証明」という時の「神」は、キリスト教の、というよりは、この世界が存在することの「原因」を意味する。アリストテレス風にいうなら「存在の第一原因としての神」だ(キリスト教の神学も、このギリシャ哲学の神概念を取り入れている)。


 今日の理論物理学で、宇宙誕生の際に時折「神」の実在や不在の問題が持ち出されたりするのはそのためだ。この宇宙を誕生させた原因は何か、無から有を生じさせた原因は何か‥‥。


 既存の物理法則が通用しない「宇宙の誕生以前」については、どんな科学者も語ることができない。だから、「存在の第一原因」については、その存在を証明することも、また否定することもできない。(もっとも、宇宙が無から誕生した、というのも一つの仮説にすぎないのだけれど。ただ、宇宙には始まりも終わりもなく無限に続くと考えたとしても「物理法則を成立させているものは何か」について語ることは不可能だ。物理法則も「存在」も、「なぜ存在するのか」を問うことはできない。経験的に「ただ有る」としか言えない。)


 その上で、ここではあえて彼女の語った詩的な「神の存在の証明」について、すこし考えてみたいと思う。「神の存在」についての論理的な思索は不毛だと思うので、僕も彼女のように、あくまで詩的に、そして僕個人の想いというよりは「現代人」としての視点から‥‥


 

photo @daisen.fujishima


 彼女にとって、この世界には二つの存在がある。彼女を「視ない」存在と、彼女を「視る」存在。


 例えば、彼女の目の前のグラスは彼女を「視ない」存在だ。グラスはただそこにあるだけで、彼女がどんなに見つめても、グラスは彼女を見つめ返さない(量子論的な問題はさて置いて、経験的に。)。


 ドラマの主人公は彼女を「視る」存在。彼女の客たちのように、あるいはマンションの隣人が飼っている犬のように、彼らは彼女を見つめ返す。


 ただ命を持つものだけが、彼女を「視る」。



photo @daisen.fujishima


 人は誰も、自分の目を自分自身で視ることはできない。誰かの瞳の中に自分自身を見出すことで、「私」がこの世界に存在していることを知る(生まれたばかりの赤ん坊がそうであるように。)。その眼差しが愛に満ちているなら、人は自然と自らの存在を肯定して生きることができる。でもその眼差しが蔑みと憎しみに満ちていたなら、もしくは最悪なことに無関心であったなら‥‥。

 「愛の反対は憎しみではなく無関心です。」とはマザーテレサの言葉だが、無関心とは相手を見つめないこと、その人の存在の重さを感じないこと、その存在そのものを「無」として扱うことだ。


 今日、多くの人たちは「存在の第一原因としての神」は存在しないか、あるいは物理法則の延長のようなものだと考える。どちらにしろその法則としての「神」は、冷たいグラスのように、世界にも人間にも無関心だ。地震で多くの人が死んでも、戦争で人々が死んでいっても、隕石で人類が滅んでも、ガンマ線バーストで地球の全生命が死滅しても、あるいは真空の相転移で宇宙そのものが消えてなくなったとしても、神は何も感じない。


 その神には瞳がない。その神には耳がない。その神は人間を見つめない。その神は人の嘆きを聞かない。その神には心がない。




photo @daisen.fujishima



 「大絶滅を繰り返しながら生物は高度に進化し続けている」と言う科学者がいたが、「種の存続」にとっては、生物の複雑な構造も高度な知性も必要ない。微生物の方が複雑な構造の生物よりはるかに様々な環境に適応して繁栄している。

 そして、大絶滅が本当の絶滅に至らなかったのは単なる偶然にすぎない。地球に落ちたのが隕石ではなく月ほどの大きさの天体だったなら、この星の全生命は回復不可能なまでに死滅していただろう。「生命を進化させる」という目的のために、地球に落ちる隕石の大きさをコントロールする物理法則は存在しない。


 この宇宙に、未来の目的のために今の事象を動かす物理法則は存在しない。


 太陽系は、惑星や生命体の誕生のために作られたわけではない。惑星が生まれたのも生命体が生まれたのも、ただの偶然にすぎない。この宇宙に生命体を誕生させるための設計図も見取り図も存在しない。


 にも関わらず、この宇宙には、未来のために今を変えようとする存在がある。それは人間を含めた生命体だ。鳥は子供を産み育てるという未来の目的のために巣を作る。僕たち人間もそうだ。未来の設計図を描き、その目的に向かって歩き、生きている。畑を耕し種を撒き、収穫する日を思い描く。


 繰り返しになるが、この宇宙に、未来の目的のために今の事象を動かす物理法則は存在しない。「法則」はないが、未来の目的のために今の事象を動かす僕たちは、確かに存在している非生命体同様に、僕たちはこの宇宙に存在している。


 僕たちが持つ「未来の目的のために今の事象を動かす」という性質が、この世界に確かに存在しているのなら、その延長線上に「存在の第一原因である神」を考えることはできないだろうか。単なる物理法則の延長線上に、ではなく、生命(いのち)あるものの延長線上に‥‥‥。


 ‥‥‥もしそうなら、この世界の存在の第一原因は無情の法則ではなく意志を持つ有情の「何か」であり、惑星や生命を生み出す設計図があってもおかしくはない。物質が生命体へ、そして知的生命体へと変化していったことも、単なる偶然の変化ではなく、ある目的へと向かう進化であったとしてもおかしくはない。


 中世の神学者のトマス•アクィナスはそのような「生命(いのち)ある、目的因を持つ存在の第一原因」を「神」だとした。しかしそれはあくまで神学であって、科学ではない。信じることはできても、また推論はできても実証することはできない。あくまで科学的な姿勢を貫くなら、「未来の目的のために今の事象を動かす」という性質を偶然に得た人類が、世界にも、そして宇宙にもそのように目的があると信じて「神」を作り出した、とするべきだろう。


 人は自らの手で神を作り出し、その存在を信じた。あたかも宇宙が誕生した時から、またその前から神が存在していたかのように。そして人は神の属性を「善」だと決めて、人間を見守る存在にした。それは誰でもない、自分自身のために。この世界が存在することに、愛する人たちや自分が生きることに意味があると信じ、「存在の第一原因」としての神の瞳の中に自分自身を見出すために。そしてこの宇宙の無関心から、存在の不条理から逃れるために。



@daisen


 今の時代、神を信じることは難しい。「神」は人間が作った概念に過ぎないことを僕たちは知ってしまったから。


 神の無関心、あるいは不在を知ること。それは人間自身が作り出した「神」という虚像を打ち壊すことであり、ある意味、神からの人間性の「解放」も意味する。


 存在の目的も意味もなく偶然に生まれたこの宇宙の中で、ただ人間だけが存在の意味や目的を問い、そして自らそれを作り出す。人生の意味や目的は、神を含めた誰かに与えられるものではなく、探し求めて得られるものではなく、それぞれの人が自らの手で生み出し、紡ぎ出していくものだ。

 

 ‥‥‥でも人は、どんなに自分で存在の意味を作り出したとしても、神を殺すことで、自らを映し出す究極の瞳を、存在そのものの瞳を失ってしまった。


 この無限にも思える宇宙のほんの片隅で、僕たちがどんなに壮大な夢や、もしくは愛に満ちた優しい「意味」を作り出したとしても、海辺の砂粒が見る夢のように、波がくれば一瞬で消えてしまう。

 

 たとえ愛する人が突然目の前で死んでも、または残酷に殺されても、死者の魂を救済する神はもういない。幼い子供を殺しておいて何の罪の意識もなく笑い、法を逃れて生きる男を死後に罰する地獄もない。虐げられた善人を救う天国も、災害で亡くなった子供達を抱きしめる聖母(マドンナ)もいない。未来へ続く運命などは存在せず、人の誕生も出会いも死も、運命的と思える人生の出来事の全ても、偶然の産物にすぎない。


 人はニーチェのように、両手を空に翳して勇ましく神への勝利を叫びながら、あるいは神という神話を冷笑しながら、またはクールに神を無視しながら、今この瞬間に全てが意味なく消滅してしまう不安を抱えながら、生きていくしかない。


 ‥‥‥存在の不安の中で‥‥‥



地の諸々(もろもろ)の王は立ち構え、群伯は共に(はか)り、主とその 受膏者 (じゅこうしゃ)とに逆らいて言う

我らその(かせ)をこぼち その繩をすてんと

天に()するもの笑いたまん。。。


(旧約聖書 詩編2-2〜4 )



 ‥‥‥神は人間が作りだしたものにすぎない。でも、繰り返しになるけれど、もしも「存在の第一原因」が「法則」ではなく「命あるもののような有情の何か」だとしたら‥‥‥無数の人々が深い絶望と希望の中で必死に作り出した神の、その姿を超えたはるか彼方に、本当に神が存在するのだとしたら‥‥人の切実な想いのずっと向こうに、一人一人の存在を見つめ愛する神が本当に存在するのだとしたら‥‥。


 聖トマス•アクィナスや数多の神学者、そして聖人たちが信じたように、「生命(いのちある神」そして「愛そのものである神」が本当に存在するなら‥‥仏教の語る御仏の慈悲や、孔子の語る「天」が本当に存在するのだとしたら‥‥


 津波に飲まれた子供達を、天国でしっかりと抱きしめる神様が、もし本当に存在するのなら‥‥‥‥


 ‥‥‥‥•

 神の沈黙の中で、神の不在の中で、返答がないことを承知の上で、僕はそれでも「神」に祈り、語りかける。神の瞳に自らを映し出そうとする。

 神の存在を否定できる人たちが羨ましい。僕にはそんな強さはない。神の存在を自明のように語れる人が羨ましい。僕にはそんな勇気はない。




photo @daisen.fujishima




 「神の存在の証明。それはあなたの目よ。」



 人の瞳のずっと奥、生命の輝きの、そのはるか彼方に神の眼差しがあるのなら、語り続ければ僕もいつかヨブのように、神の返答を聞き、その実在を知ることができるのだろうか。リジューの聖テレーズのように、深い闇の中にあっても神の実在を信じ続けることができるのだろうか。



 ありえないことを信じることを宗教というのなら、僕の儚い夢もまた、宗教なのだと思う。


   


Daisen Fujishima