日本画家の前田青邨(1885〜1977)による「洞窟の頼朝」。 後に鎌倉幕府を作った源頼朝の、33歳の姿が描かれている。
 
   伊豆山で平家打倒の旗揚げをした頼朝だったが、おりしの豪雨で援軍の到着が間に合わず、石橋山の戦いで平家方に惨敗する。頼朝の手勢は三百騎、対する大庭景親(おおばかげちか)の軍勢は三千余騎だった。追撃の手を緩めない景親に頼朝らは激しく応戦しながら、山中を敗走していく。その際に頼朝一行が洞窟に身を潜めたとされる伝承を、この絵は描いている。


「洞窟の頼朝」 前田青邨 作     大倉文化財団蔵 


  頼朝含め、土肥実平ら六人の武将の大鎧が画面全体に複雑に描かれているが、赤威(あかおどし)の鎧をまとい兜に金の鍬形(くわがた)をさした頼朝の顔に、一瞬で目がいく。武者たちの真ん中にどっしりと腰を据えたその頼朝の口元には笑みが浮かび、とても敗残の将には見えない。


   敵兵たちの足音や掛け声、武具の打ち鳴る音を微かに聴きながら、頼朝一行は洞窟の静寂の中に息を潜める。生と死の狭間の現実を、その両目を見開き逃げることなく見据える頼朝は、しかし涼やかなまでに泰然自若としている。入り口に人影がさせば、その時は頼朝たちの死を意味する。しかし頼朝はどっしりと構えて動じない。その凛然とした気概が、周囲の武者たちにも及んで行く。武者たちは、死をその腹に据えながら「生きること」を覚悟し、敵兵の隙をつき逃れ出る、その一瞬を狙っている。武士にとって生死の覚悟は表裏一体。己の死を腹に据えないものに、勝機も「生きる覚悟」も生まれない。


   ただ一人、頼朝の前で背を丸め、俯いた横顔を見せる武将だけが、敗戦の苦しい現実を物語っている。(この武将と頼朝の顔は、他の武将より明度が高く描かれている。)




   西洋の群像表現では、手の動きが重要になる。しかしこの絵ではほとんど手が描かれていない。同じ青邨の「腑分け」もそうなのだが、手を描かないことで、見る側へ無意識に、描かれた歴史や出来事の「意味」を伝えている。(青邨の「腑分け」とレンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」を比べてみてほしい。)

  「洞窟の頼朝」では、弓懸(ゆがけ)に覆われた頼朝の左手も強調されることなく、鎧の中に埋没している。手が描かれないことで、もはや頼朝たちに敵勢とまともに戦う手段がないことが、こちらに無意識に伝わってくる。 戦う手段がないことを説明するのに、もし折れた刀や空の矢筒などをかきこんだら、それは単なる説明になり芸術性は損なわれ、「歴史画」ではなく「挿絵」になってしまう。

  

   洞窟の岩や土なども一切描かれていないが、密集する武者たちと左端のわずかな丸みの表現で、狭い洞窟の気配が端的に描かれている。


  また、 日本画には西洋画のような陰影表現がない(というより生々しいとしてそれを避けている。)が、複雑な甲冑の質感が、絵韋(えがわ)や威毛(おどしげ)はもとより菱縫(ひしぬい)に至るまで見事に表現されている。


  青邨は源平争覇期の甲冑を研究し尽くして、自由自在に絵の中で操っている。


   複雑に折り重なる鎧や色彩を、一つの動きと律動の中にまとめた構図の絶妙さはいうまでもない。




    この絵が描かれた前年に、関東軍による張作霖爆殺事件がおこる。そして この絵が描かれた昭和4年には世界恐慌が、その翌年には昭和恐慌がおきる。さらにその翌年の昭和6年、満州事変が勃発する。


   単に作家個人の才能や人格に帰するのみではない、その時代への人間の無意識の呼応が、この絵には描かれていると思う。 それは、どんな時代の中でも、またどんな現実に直面しても、人も自分も日本人もこうでありたいと願う、青邨の想いなのだと思う。


  真に生きようとしない命に、死ぬ覚悟も、そして勝利も敗北も生まれない。


   ……茫漠と日々を生きているだけの自分だけれど、この「洞窟の頼朝」を見るたびに、襟を正したくなる。







追伸


   伊豆は頼朝の流刑地でしたが、以前、私も数年住んだことがあります。 流刑地というにはあまりに気候の良い場所です。冬に椿が咲き、夏には東京では聞けないクマゼミが鳴き……少し滞在するだけでも心身が癒されます。


   頼朝が帰依し、旗揚げ前にも参拝した伊豆山神社にも、何度か年越しの大祓いに行ったことがあります。茅で作った大きな輪をくぐる神事です。 多くの神社では6月に夏越の神事として行われているようですが、伊豆山神社では年越しにも行われています。

   真夜中に輪をくぐると、なにか不思議な気がしました。ちょっと母親の胎内から出るような……そんな記憶はもちろんありませんが^^;


  伊豆山神社は頼朝と北条政子が逢瀬を交わした場所でもあり、今では恋愛成就・縁結びの神社としても有名です。