33歳で膀胱がんと鬱と生きる意味

33歳で膀胱がんと鬱と生きる意味

33歳で膀胱癌告知

2017年 MRIで脳内萎縮発覚
2018年 脳に動脈硬化発覚
2019年 軽度色覚異常発覚
2022年 裂孔→痔核・痔瘻を発症、オペで瘻管摘出

うつ病、障がい者として生きる

生きる意味を考えるブログ

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ようやく痔瘻の手術の傷も治ってきたが、まだ完全ではなく今月治らなかったら焼くらしい。。

焼くといっても軟膏を塗って焼くような処置で数日痛いくらいとのこと。


オペをしてから一体何ヶ月が過ぎたのかもわからないくらいこの病気は厄介だ。痔になってからは本当に長い長い時間が過ぎていった。軟膏を塗って数日間でこの闘いに終止符を打てるなら、早くその軟膏を塗るなり注入するなり医師に喜んで我が肛門を捧げよう。だからもうゆるして、、。


そして今日は膀胱がんの定期検査の日。


ところで私の現在は、ようやく働く場所が決まり、アルバイトをしている。開けてびっくり、仕事内容の中には人の死や病気の事を目にする機会のある仕事だった。生きるとは、死んでゆくこととは、を強制的に考えてしまうのだ。


さらに、肉体労働もあり腰痛持ちの自分には地獄。募集内容と全く違う仕事をさせられている。今日も全身筋肉痛。


話しは変わり胃が日々のストレスから解放されないまま荒れ放題で、胃薬で最強のタケキャブを何ヶ月も飲んでいる。胃痙攣を抑えるストロカインも手放せない。強烈な痛みがあると胃がんなんじゃないのかと心配になる、医師はピロリ菌がいなくてもガンになるから一年に一回胃カメラしてくださいと言っている。。


今回の膀胱鏡がはじまる、転院先のこの病院では2回目の膀胱カメラ。1回目について、以前ブログには書かなかったが超絶辛い出来事だった。そう、雪の降る日だった。


呼び出しの機械は壊れていて鳴らずにエラーで何時間も待たされる事件と、その他にも最悪な思い出として残っているあの日。呼び出し事件の件はまた機会があったら書こうかな。。でもちょっとだけその日の事を書くと、あの日膀胱カメラのモニターがついていなかった。モニターがつかないのに看護師達は気づいていて、大丈夫かな、これでいいんだよね、大丈夫っしょ。とか話している。。私も再三大丈夫なの?と確認したのだけれど、電源は入ってるし結局大丈夫だと強く言われて何もそれ以上言えず。


そして、膀胱鏡をされた時にやっぱりモニターがつかずに、何分も挿されたまま待たされスタッフや医師はパニック、自分はそれの数百倍倍パニックだ。予めモニターがついたのを確認してからやって欲しいと言ったのに。。そして検査したのが研修医らしき人で何分間もの間、膀胱内をぐりぐりされた。手術跡はどの辺りですか?と私にパニックの私に訊いてくる。。手術跡、、カルテくらいみてこいよ!って突っ込みたかったがカーテン越しの医師に下半身を晒した自分がクレーム言っている姿が恥ずかしく言えなかった。


いい加減物凄く痛い、麻酔は切れていたと思う。かなり痛いのでまだですか?と言ったら、どこが痛いんですか?と言われる始末。どこって。。


今先生来ますから待っててくださいね。と看護師にまだ先生はこないのか、と耳打ちして内心焦っているその人を見て、先生が結局視るの?えっ、まだやるの?冗談と信じたかったが現実は甘くなく、本当に拷問だと思った。


その担当の医師も最初の問診から感じが非常に悪く、検査のやり方を他の先生に訊きに言ってる声が遠くから聴こえてきた。


先生の検査が終わり前掛けタオルは血だらけ、トイレに行くともっと地獄だった。痛すぎて排尿できない。あれから1週間痛かった。本当に辛かった。普通、長くとも数時間あれば出血が止まるし、数回トイレに行ったら痛みは楽になるのに、こんなに何日も出血して排尿する度の激痛、痛みに耐えなければならないのは怒りしかわいてこなかった。


あの日、先生に1回で終わらないものなのか問い詰めたら、なんだかんだで感じの悪い態度をされ、最終的に、だって混んじゃうし。って言い放たれた。


この医師は最初から最後まで私と目を合わせたりは決してすることはなかった。。


あの後、担当医を変えたのは言うまでもなく2度とあんな思いはしたくない。


担当医を変えてからは、前回のトラウマがあるので先生が最初から最後までやってくださいとお願いするようにしている。


今回も椅子に座って先ず看護師に言った、やはり反応は確認してきます。と言われた。言って正解。検査は最初から先生がやり数分で終わり問題もなかった。


とりあえず今回はこの辺にして、また次なる病気がはじまってしまい治療中なのでその件はまた後日。