頭の中が桜で一杯になったら大変だろう




確かに、そうだろう。


降り積もる雪の如く、桜の花びらが重たく見える。


軽やかなはずなのに、とても重く見える。




どちらにしても、頭の中が何かで一杯になるのは大変なのだ。

黒いカラスが好きだ
真っ黒な色が好きだ
大きな目が好きだ
賢そうな大きな目
無邪気そうな大きな目
そして残虐なくちばしが好きだ

カラスを飼いたい
傍に置いておきたい
ただし、鳴かれるとうるさいだろう
殺してしまおう

カラスはきっと頭がよいに違いない
彼らは賢い目をしている
動物は、人間より賢い目をしている
人間は、動物だけれど、賢いかどうかは人による

きっと、バカなカラスも居るだろう
頭の悪いカラスも居るだろう
それでも、カラスが好きだ

なぜ真っ黒なのか
なぜあそこまで真っ黒なのか
しかも、その色を彼らは気にしていない
彼らはしっくりきているようだ

黒い色が好きだ
光沢のあるようで、しっとりした黒い色が好きだ
カラスは、その権化だ
彼らは、黒の権化だ
だが、その黒は決して悪ではないのだ
あの黒は、むしろ知的な世界の闇の色だ

からすの色は宇宙の色だ
カラスの色は世界の色だ

カラスが好きだ
でも、カラスにはなりたくない
僕は人間だ
僕は、何の色だ?



(元ネタ、発想のタネはヘルシングっていうマンガです・・・・・・)

仕切り直しって出来るんだろーか・・・・・・・


どうにも、うだうだと生きているだけで体中に色々なものが絡み付いて、動きにくくなっていく気がする。

でもって、それらはなかなか引きちぎれない。

もちろん、無茶苦茶薄くて、アッサリ消える”縁”もあるけど、中には染み付いちゃってなかなか取れてくれないものもあるわけです。


だとして、それら全てを振り切って、仕切りなおすって出来るんだろうか??


無理ジャン??

と、思ってしまう今日この頃。

快刀乱麻を断つが如く、そういう諸々をばっさり切り落とせるなら、人生ラクなんだろうなぁ・・・・・・


でも、そういうしがらみってかなり人の行動を束縛している気がする。

親への情とか、色々なことに対する未練とか、思い出とか、そういうのがあるから人は生きていける・・・・・・のか??(コラ

てか、そういうものがあるからこそ、人は自分を自分以外と識別できるんじゃなかろーか、などと考えてみたり。


なんにしても、そういう結論の出ないことをブツクサ考えるのが好きなラムダでありました。

(そして眠たくなったので放り投げるwww)

読み終わった本、捨てますか?


わたしゃー捨てません。

だって、数年後に読み直したらぜんぜん違った風に見えるから。


でも、それでも捨てる本はある。

それは「もう見たくない」とか「あ~、すげー時間の無駄だった」と思っちゃうような本である。

つまらない本は捨てない。

何でかというと、つまらない=理解できていない=数年後には面白くなる可能性がある、という理屈だ。


でも、読んでしまって、理解してしまって、しかも挫折感すら味わうほどにつまらない本は捨てるかブックオフに引き取ってもらう。


で、そういう本をまとめてみた。

疑問発生

「本当に俺はこれらを理解して、つまらないと思ったのか?? 勝手に勘違いしただけじゃないのか??」

疑問に包まれ数十秒、それらは押入れの奥へと消えた。



単に捨てられないだけかもしれない。。。。。。。。だめじゃん


ふと、ブックオフに置いてある「まともな本(マンガでもライトノベルでもない実用書」とかは、やたらと面白くなさそうなのが多いと思った。


で、考えてみたらどれもこれも「いらない」と思われてココに居るわけだ。

だとしたら、それが「面白そう」な訳はないのか。。。。。。と結論付ける。


あれ? でも小説とかはそうでもないなぁ、面白いマンガも(少ないけど)確かにあるし。。。。。

あ、そっか

みんなの嗜好が違うから、Aさんにとってはゴミでも、俺にとっては宝物だったりするわけだ。


だとすると最初の結論は間違っていることになるのか??

う~~ん・・・・・・・・・マンダム


というわけで、結論としては、俺はまだその実用書とかの面白さがわからないorつまらない実用書は誰にとってもつまらない

のいずれかです。(強引だなぁ

知的障害者の痴漢行為は許されるのか?
 現代社会において、知的障害者を差別することは社会倫理に反することだし、人間としていけない行為だと教育されている.......... ≪続きを読む≫


厳密な(学術的な、という意味)知的障害者の定義は知らないけれど、この間ふと思ったことに繋がったのでアメーバニュースの引用という新しいことをしてみましょうか(笑)


自分は、世の中に本当の意味での”狂人”はおらず、多数の常識とか良識から逸脱した人をそのように呼称しているのだと考えている。

日本で日常的に犬を食べたりしたら狂人扱いされるが、それが”普通”とされている国や地方では狂人扱いされない、ってなことだ。


そこから、犯罪ってなにさ、という話に飛躍する。

犯罪というのは、要するに「やってはいけないとされていることを、故意か否かに関わらずしてしまうこと」であると認識しているのだが、この”やってはいけないこと”というのは、もちろんその社会やコミュニティーによってまちまちだ。

ある国では麻薬は持っているだけでも違法だが、別の国では許可されていたりするってな具合に。

そして、犯罪の定義というのは法律で定められていて、その法律が適応される範囲(国境とか)も決まっているわけです。


(あまり法律は詳しくないので、ここからはかなり憶測交じりです)

かりに、日本国籍を持たない人(いわゆるガイジン)だとか、日本語の喋れない&日本の風習もあまり知らない海外からの旅行者などが犯罪を犯したら、それはやっぱり犯罪と認定されたりするのでしょう

(裁判とかは本国への引渡しがあるから無理なのかな? でも、ここで言うのは”犯罪とされていることをしたら、日本人と同じように犯罪と認定する”ということです。)


で、何が言いたいかというと、障害者だとか”判断力を失っていた”などと裁判で言われる人(殺人犯の弁護によく使われている気がします)は、上記の限りではないのですが、これは何を意味するのでしょう??


これって実は、”自分達と同じ人ではない”と認定しているってことではないでしょうか?

人間が物を盗めば窃盗だけど、カラスが宝石盗んだって窃盗にはなりません(犯罪とは考えられないし、刑も執行されない)

これと同じ理屈なんじゃないでしょうか??


だとしたら、それは果たして”人権”という言葉と矛盾しないのだろうか、とたまに思います。

だって、”アイツは俺たちと同じような、判断力を持っていないから、同じ基準では裁けない”と言っているのだとしたら、それってつまりは”アイツは狂ってる、マトモじゃない”と断言しているようなものではないのか??

と思ってしまうわけです。


ある社会の中で「正常」とされるものが、”社会それ自体”によって決定されるのだとして、

その判断基準で社会に所属している人たちを取捨選択していく、というのがいわゆる「犯罪」だとか「狂ってる」ということの本質だと思うのです。


均質(ある種の安定性)をもった集団は、自分達の基準から逸脱した人を排除して行く。

もちろん、それは”集団の”安全や安定を保つためだし、集団生活を円滑に行う為に必要な措置な訳です。

犯罪者と断定することがそれを意味するなら、どうして”その人が何をしても犯罪ではない”と断定することがその排除でないといえるのでしょう?


みんな結局、口では色々なことを言うし、良識に基づいた発言をするけれど、その本心では集団生活を円滑におくれない”障害者”に対して何かしらの拒否反応を持っているはずだし、それ自体は別に普通のことです。


では、”障害者”を積極的に排除することが正しいのか??

といわれると、これはもう結論が出ないような気がします。
いまの日本の社会では、”障害者”を「例外」として扱うことでこの問題にひとつの決着をつけています。

ですが、それが本当の解決になるのか。

例外扱いすることは、本当に”障害者”の人権を無視していないといえるのか。


よーわかりません。

(あ、逃げた)





管理画面を前にして悩むこと23.5秒


「書きたいことは無いけど、なぜか管理画面をいじってます。。。。」という記事を書き始めました。


明らかに期末試験から逃げてるだけですが、とりあえず何か記事を書いておきたい気分なのです。

(でも、何を書きたいかは分からないいじらしい今日この頃)


二つ前の記事(アフリカといえば悲惨な話)なんですが、その日だけアクセスが3桁(600越)ですが、これは何を意味しているんでしょう??


やっぱり題名に惹かれたのかな?

そんなに悲惨な話が聞きたいのか??・・・・・・・そういう話に興奮する人たちなのか?


疑問は尽きませんが、まぁ皆様の関心が高いことは素晴らしいですね

何にしても、関心が高いというのは感心です。


ですがですが、皆さんアフリカってどのくらいご存知?

俺は殆ど知りません。

だって広すぎるし、国とか歴史とかごちゃごちゃしすぎてるんですもの・・・・・・




では、ここで俺の狭い知識を披露して疲労するとしましょう。

・タンザニアの道路は日本と同じ左通行、でもってなぜか中古のバス(日本車)が走ってるらしい

・タンザニアの官庁では電気代の払えないことがあったらしい、  あれ? 今もなのかな??

(社会主義だった頃には問題にもならなかっただろうに。。。。。資本主義って恐ろしいwww)

・コートディボワールは他の国に対して「俺たちの名前はコートディボワールだからね、象牙海岸とか呼ばないでね」とか言ってるらしい

・ちなみに、現在は事実上南北に分断され、DDR(武装解除とかとか)が進まず大統領選挙が出来ない状態。。。どうすんだろ

・アフリカの角ことソマリアは年末に事態が急変、イスラム勢力が適度に治めていたがひっくり返されました(で、そのイスラム勢力が各地に潜伏している為にやたらと緊迫してるらしい)


なんだこのいらねぇ知識は。。。。てか、どれもこれも正確性に欠けるなぁ・・・・


まぁそれはともかく、きっと多くの人はアフリカの実情なんてご存知ないんでしょうねぇ・・・・・・

第一”アフリカ”って単語自体、どっからどこまでを指しているのか分かってるんでしょうか??

アフリカ大陸に住んでいるのは、全員黒人だと思ってる人も多いのでは?(高校2年までそう思ってましたが)


”普通の”日本人が、アフリカやらアジアやら、そういった国々の貧困やら様々な問題に興味を持つのは良いことです。

良いことなんですが、毎回毎回、おおきく報道されたこと以外は無関心ってどういう事でしょう?


つまりは、そうした国や土地、そこに住む人々に興味があるんじゃなくて「ホットな話題」に興味があるに過ぎないのでは??


そうしたブームとか一般的な良識に乗っかってアフリカの話に興味もったりするのは、”良い事”なのだろうかと疑問になります。

何にとって”良い”のか、と言われると良くわかりませんが・・・・・・・・


でも、そういうブームって結局は過ぎ去る。

ブームの最中ですら、きちんとした知識を持っている人は少ないのに、過ぎ去った後に残るのは中途半端な幻影、ステレオタイプ


アフリカは貧しい、なんか危険だ、でもってサバンナがある


中東は危険だ、イラクは大変だ、イランも大変だ、石油はでるけど


あなたは本当に”知っている”のか

”知っている”とは何か

どこまで”知って”いれば”知っているさ”と答えることが出来るのか



自分も含めて、殆どの人は外の世界に関しては何も知らない。

てか、そもそも自分自身についてすらあまり分かっていなかったりするんだから、そのキャパの無さも致し方ないのかも知れない。


知ってるつもりにならないで欲しい、と思う。

殆ど知らない国なのに、「危険だ」とか「貧しい」とか「かわいそう」とか何様のつもりなんだろう??


もし誰かに

「日本人はかわいそうだ、毎日働かされて、ウサギ小屋に閉じ込められたような生活をして・・・・・最後には過労死する。

 しかも、老人になっても年金はないし、エイズ患者はドンドン増えてるし・・・・・・世紀末ジャン?」

とか言われたら?


特に何が言いたいわけでもないのだけれど、

アフリカの悲劇みたいな話を聞いて、募金とか、かわいそうといって唇をかむ前に少しばかりその国や地方について調べてみたらどうだろう?


別に19世紀の先進国が今のアフリカを作ったから云々とかいうつもりは無い。

それは単なる歴史であって、だから日本はお金だそうとかそういう話をしたいわけではない。


衝撃的な話を聞いて、あっさりと頭がぐらぐらして、涙して。

それで満足しているなら構わないけど、それだけで満足してたら、その時の気持ちはハリウッド映画を見たときのドキドキみたいな、一瞬の輝きで終わってしまうかも知れない。

(別にハリウッドが嫌いなわけじゃない、つまりは刹那的な激情で終わる、という話)


「ルワンダの悲劇」みたいな映画を見て、泣くのは構わないんだけど、それだけだったら単に「お涙頂戴の映画に金を払ってきました」ということになる。

それはつまり、その映画を見て、「消費」して終わっただけになるのではないだろうか??


勿体ないなぁ

せっかくの感情なんだから、涙流してすっきりするだけで終わらせないで欲しい。


あ、勉強しなきゃ(泣


何かといえばシャーペンの話です。


理由は単純、0.5だと折れるから☆

なんで折れるのか未だに疑問ですが(筆圧が高いから??)

とにかくバキバキザキザキ折れるのです。


そんな訳で、0.7のシャーペン(Pentel のTUFF 0,7)を愛用しているんだけど、なぜかよくなくしてしまう ○| ̄|_


既に去年の今頃から3本無くし、今日買ってきたので4本目。。。。。。バカだぁぁぁぁぁぁ


鳴きたく(泣きたく)なるくらいにバカなんですが、でもやっぱり使い心地サイコーで満足満足


Pentelさん、いつまでもTUFFシリーズを作り続けてくださいm(_ _)m という記事でした(え?

へんてこりんなサークルに入っているお陰で、アフリカだとかあちこちの”悲惨な話”をよく耳にする。


斧で腕を切られたとか、生きながらに埋められたとか、10代にもならない子供がレイプされたとか。


全くもってよろしくない話ばかりだが、上のようなこと以上に俺がひっかかるのはそれに対する人々(日本人)の反応だ。


よほど善良な人が多いらしく、皆さん感動の涙で頬を濡らしつつ、「私はこんな平和なところに住んでいるのに・・・・」と自虐的かつ自己批判的な発言をして、その上で「何かできるはず!!」と熱く拳を握るのです。


そして、募金箱にお金を入れたり、ホワイトバンド買ったり。


で、その募金箱のお金が違う用途に使われていたとか、ホワイトバンドは実は募金じゃないんだよとかいう事が分かった途端、なんともいえない顔で怒り出す訳だ。


誤解されると困るのだが、自分としてはそういった素直な感情や、そこから何か行動を起こそうという善良な気持ちを否定したりはしない。

自分は別に懐疑主義者でもないし、世界が良くなることを諦めているわけでもない。


でもでもでもでも、なんか引っかかる。


何が引っかかるかといえば、その募金だとかホワイトバンドだとか、そういうもので「満足」しているところだ。

本当にそれでいいの?? と思ってしまう。


だって、だってさっきはあんなに憤って、自分の不甲斐なさに唇をかんでたじゃん??


なのに、なのに募金した時点ですこしすっきりしてるように見えるんですが・・・・・・・・・


たまに見かけるのは「何十円で、何人の子供が助かります」という広告(あれって広告なのか?)


そして、それ相応の金額を寄付して、満足する人たち。





素晴らしい。

このシステムは素晴らしい。


別にそうした仕事に従事している人たちを揶揄したり、バカにしたりしてはいない。むしろ尊敬している。

だって、人々にささやかなお金を払ってもらい、ささやかな満足を与える。


「あなたに出来ることがあります」

「そうか!! 自分だってこれくらいは出来るんだ!!」


素晴らしい。

こうして、善良な人々が罪悪感に襲われるのを防いでいるわけだ。

公共の精神衛生を守っていると考えれば、その活動はささやかながらも意味があるのだろう。



だが、やっぱりそんなものでは問題は解決されない。

じゃあ政治家になるか?

金をたんまりもうけて、援助をするか?


自分は臆病で実行力もないので、上のような誘惑にも懐疑的だったりする。


”他人の問題だから”と放り投げたいわけではない。

だが、やっぱり目の前にある宿題とか、そういうものの方が大事でしょ? と思う。


貧しい国に援助するために、乞食になる人はいない。

乞食になってまで、ヒーローになろうという人もいない。

そこまで綺麗に、そして強力に思い違い&思い込むことができる人が少ないのかも知れないが。



愛すべき善良な人たち、あなた達の善意が、どこかのだれかさんのステーキ代となって資本主義社会に還元されるとしたら・・・・・・どうします?


ついでに言えば、あなた達の善意は、結局のところ「外側」の善意に過ぎないのです。

俺には内側まで飛び込んでいくだけの勇気も、理由も無いだけだけど、あなた達はどうですか?


遠い異国の子供たちの為に泣いて、嫌な気分で布団に入り、会社に行く途中で募金して、

家に帰ったらこんどはすっきりとした顔で眠れるでしょうね


そんなに簡単に手放してほしくない

そんな風に思うけど、それ以前に俺は掴んでも居ないのでした、とさ。

いやぁ、もうタイトルそのまんまです。


よく占い見たりするんだけど、絶対に覚えていない。


まぁ、そこまでの必要性を感じていない証拠なんだけどねぇ・・・・だったら見るなと言いたい。



正直、星の動きでその日の”流れ”が決定される、とかそういう話は嫌いではないが、やっぱり頭では「まぁ、所詮占いだけどね」と思っている。


もし、星が日々の生活に影響を与えるとしたら、過去の占星術は間違いだらけだったんだろうか??

なぜなら、過去には発見されていなかった、もしくは太陽系内にあるとは考えられていなかった惑星とかもあるだろうから。

科学の発達と共に明らかにされ、そのたびに占星術に組み入れられていったのかなぁ。。。とか思う。


(とかいって、ウィキペディアとかできちんと調べないあたりがこの文章が”駄文”たるゆえんである)


でも、と俺の中にいる夢見る少年が目を輝かせる。


仮に過去に認識されていない星があったとしても、それは”認識されなかったがゆえに、影響を与えなかった”のでは??


つまり、その星なり惑星なりが「発見」された瞬間、そしてそれが「広く認知」された瞬間から人々の生活に影響を与え始めたのではないだろうか??


不明瞭な言い方をすれば、「認知されて、その世界に組み込まれた」のではないだろうか??




上のような考えは、とてもロマンチックで面白い。

そして、それゆえに子供っぽいとして小説だとか疑似科学の枠に押し込められてしまうのだ。

(誤解があるかもしれないけど、俺は疑似科学を嫌ってます。だって、論理的じゃないものを”科学”といっちゃぁいけないのさ

 科学ってのは”論理的”なものなんだから)


だけど、実のところ、世の中に溢れている”常識”とか”法則”とかはまったく知らない人に言わせれば魔法の言葉と大差ない。


ビックバンと同時に時間が始まったのであるから、ビックバン以前に時間は無かった(これが正しいかどうかは知らない)

とか言われると、

「それってどんな小説?」とか聞き返したくなる。


結局のところ、科学も小説とかのファンタジーも、人の想像力の賜物に過ぎない。

だとして、その差は?


単純、認められているかいないかだ。


何をもってスタンダード、基準とするかといえば、それは全員(もしくは多数)の間で合意が取れたものに違いない。

だとしたら、その多数が正しくなかったら、その基準は正しいの?? という話。


あまり詳しくしらないのだが、魔女狩りだとかルワンダの虐殺とかが平然と行われたのは、それが「普通」だったからに違いない。

今、多くの人は上記の二つの例を「悪いこと」と判断するが、100年後の人たちが同じ判断をするかどうかは分かりませんよっと。


でも、まぁ自分達が生きているのはその”多数”の世界であり、”少数”になることが排除の対象となることと同義だとしたら、やっぱり”多数”に従って行くしかない訳で・・・・・・・・・・



そうしたら「占いは楽しむけど信じない」というどっちに転んでも大丈夫な選択だけが残るのかも知れない。


いや、ここまで読んでくれた人が「え、だから?」とか思ってるかも知れないけど、これは「駄文」なんですってば。

そうやって最初から逃げている以上、そこに大したものが無いのは自明の理なわけです。


あ~ねむ(ρ_―)o