「・・・わぁっしみにしてろよ」

ぽん、と頭を叩かれて目頭が熱くなった。一瞬なはずの甲斐の手の重みがじわりと残る。

頭を触られるのは好きじゃない。慰められるのも甘やかされるのも好きじゃない。癖っ毛で猫っ毛な自分の髪質も好きじゃない。

だけどその手がずっとそこにあればいいのに、と思った。矛盾しているけど、きっとそれが恋愛感情なのかもしれない。


自分らしくない、柄じゃないことを受け入れるのは自信の喪失に直結している気がした。
なぜあたしはこんなに弱くなったのか。弱さなんて自分が一番嫌っていたものなはずだった。女だからと言い訳せずに済むよう仕事でも道場でも負けじと張り合ってきたのだ。

それも上手くいってたはず。

甲斐が怪我するまでは。


だから甲斐に肩を押されたのを機に、振り切るように身をよじって離れる。これでいい。

恋愛感情なんか無視すればいい。残り少ない時間、相棒としてだけ付き合えばいい。

離れれば忘れると思った。一課を離れた甲斐があたしを忘れるように、あたしも甲斐のことをどう思ってたかなんてどうでも良くなる。後々思い返せばあんな男に血迷ってたって笑い飛ばせるようになる。

一つ、片付いたと思った。

あとは春日さんとのお見合いを断って、それで10日ほど前の、甲斐の腕が折れる前の状態に戻ればいい。あたしの目標は一課でのし上がって行くこと。それだけはブレてないんだから。


道場で心を落ち着かせて、甲斐との対応の仕方を決めて、目標を見据えて。

しっかり自分で解決していけている、と自負しているのに気持ちは一向に晴れない。

「・・・帰ろ」


帰り際、甲斐の顔を見ることができなかったことが情けなかった。



**********************


早朝に道場に顔を出し、一汗かいて現場に向かう日々が続いた。

自分のデスクに寄らなければ甲斐に会うこともない。現場も佳境に入り自分の家にすらろくに帰れない生活で、随分元のペースに戻れたんじゃないかと思う。

そろそろあのピアスを着けてもいいんじゃないかとそっと自分の鞄に手を差し込む。

実は外したあの日からずっと鞄に入れたまま持ち歩いていた。


勲章のように感じてた一課バッヂのミニチュアみたいな可愛いピアス。

30歳の節目に相棒から貰ったピアス。


「・・・西島さん、タバコ吸っていい?」

「・・・えっ?なんですか?」

鞄の中のピアスケースに指先が触れた途端に声をかけられて言葉が聞き取れなかったあたしにとうとう春日さんが笑い出した。

「・・・なんですか」

どうぞと言わなかったのがツボだったのかなんだか知らないけれど、笑われるようなことはしていない。諫めるようにキリと睨む。

「甲斐さんと、何かあったでしょ」

ずばり直球の指摘にムウと押し黙る。何かあったと言えばあった、何もない、いつものことだと思えばいつものことで、なんと答えて良いかわからない。

「・・・ビンゴ?」

タバコに火をつけながら人懐こそうに覗き込まれても何も言えないままだった。


「仕事柄さ、限られた情報の中で読み取ろうとする癖があるでしょ。だから外したときでかくて恥ずかしいよね」

黙り込んだあたしにこれ以上突くのは得策ではないと感じたのか、春日さんは煙を吐き出しながらやんわりと話題を逸らす。

「君の前で初めてタバコ吸ったときもさ、まず僕のタバコの銘柄チェックしたでしょ。無意識かもしれないけどそれも刑事の癖だよね」

そういって赤ラークの箱をポンと上へ放り投げてキャッチした。

そういえばそうだったのかなぁとぼんやり思う。本当無意識だったけど、言われてみれば最初から赤ラークだと知っていた。

春日さんは人の気持ちを察するのが上手いなぁと思う。人との対応の仕方は孝ちゃんを彷彿とさせた。

この人相手だったら甲斐との様に喧嘩になることもないのかもしれない。

今まで自分が付き合ってきた人たちもこうゆうタイプの人ばかりで、それをいいことに胡座をかいては離れていってしまっていた。

最後の人は結婚話まで行ったのだけれど。


「・・・あたし、課長にお見合いするなら仕事辞めなくても許してくれる人とって言ったんです」

「・・・うん、越坂部先輩から聞いてるよ」

春日さんはあたしの話の飛び具合にも気を悪くしないで答えてくれた。

「僕、仕事してる西島さんがいいなと思ったからね」

本当にいい人だと思う。甲斐の言うとおり、あたしにはもったいないくらい。今だってあたしが助手席で春日さんが運転席、本庁所轄の差はあれど春日さんの方が上の身分なのに一つも嫌な顔をせず率先して運転してくれる。


「でも、このままお見合いして結婚とかなったら、ずっと春日さんに課長のしたり顔映しちゃうと思うんです。だから」

「先輩が理由なの?・・・甲斐さんじゃなくて?」

優しい口調のまま春日さんの目から笑いが消えて、びくりとする。

「前の現場で見かけたときは今してるピアスをつけてたんだよね。それが今回紅いピアスに変わってて・・・で、今また前のに戻ってる。君、そんなに身につけるものころころ替えるタイプじゃないでしょう?」

事実を突きつけられて言葉に詰まる。仕事内容だったら、ここまで窮境な思いはしないはずだけど、いかんせんこれはあたしの超個人的な内容だ。尋問受けてる被疑者の気持ちがわかる気がした。刑事は敵に回さない方が良い。

「意地悪言ってごめんね、でもこの年になるとイイヒトだけじゃ欲しいもの手に入れられないってわかってるからね」

辛そうに目を伏せた春日さんに、言いたくないことを言わせてしまったのだと気がついた。


「あのピアスは甲斐に貰ったものです。でも・・・甲斐は、関係ないです。もう」

もう、関係ない。甲斐とはあと数ヶ月、相棒としてだけの付き合いだ。

「わかった、お見合いは反古にしよう。・・・でも君、本当意地っ張りだね」

甲斐さんの話題になる度にそんなに沈んだ顔して、と、春日さんは呆れたように煙とともにため息を吐いた。


**********************


結局ピアスを付け替えるタイミングを逃したまま仕事を終え、夕飯にしては遅すぎる弁当をコンビニで物色していた時だった。

「春日から聞いたよ、西島くん」

課長からの呼び出し電話に、ちっ、話はえーなと小さく舌打ちする。

嫌みなら電話で済ませてくれればいいものを、すぐに顔を出せと言われてもう一度舌打ちして何も買わずにコンビニから出た。



「君の条件通りの男を選んだはずなんだが?」

越坂部課長は自席に座ったまま苦虫を噛み潰したような表情でギロリと睨んだ。

そろそろ前髪やばいんじゃねぇの位に感じてたその存在も、実際矢面に立たされると威圧感がすごい。

すみませんと頭を下げてから、さてどうしたものかと逡巡する。

「ありがとうございます。とても素敵な方を紹介してくださって」

こうゆうときの切り抜け方が巧みなのは、と思い巡らせて一人しか浮かばなかった。

「・・・でも、課長の下で学ばせて頂く今がとても楽しいので、もう少し訓育いただければと」

口角を意識してにっこりと笑って見せた。

「・・・どこで覚えた?その笑顔。お前、そうゆう世辞は苦手だっただろ・・・甲斐か」

課長の脳裏に浮かんだらしい男の名前をを忌々しげに吐き捨てる。

「俺、そのツラ嫌いなんだ」

思わず私もですと零しそうになって、慌てて口を閉じた。

表向きの笑顔は相手に伝わるものだ。本庁一課の課長ともなれば汲む力も相当だろう。

甲斐がどれほど課長に疎まれているかは想像に容易い。それを何事もなくあしらい続ける彼も大したものだと思った。

「・・・すてきな相棒と組ませてくれたことにも、感謝しています」

多分の嫌みも含めてお礼を言い、もう一度頭を下げた。



**********************


また性懲りもなく折れたヒールの予備をとりに一課へ戻る。

二度までは靴の修理店にだして直して貰うけど、三度目は捨てるようにしている。なんでこうポキポキ飽きもせず折れるのか。骨折だって再び繋がった骨は前より強固になるっていうのに。

甲斐が一課を離れる時が来たら、もうヒールの高い靴は履くのをやめようと思う。

甲斐と組んでから前を歩く背中が自分の視界を塞ぐのが嫌で履き出したものだ。彼と離れたら履く意味がない。この先もっと背が高い人と組むかもしれないけど、たぶん、その背を目障りだとは感じないだろう。そもそも自分より前を歩かせなきゃ済むことだ。甲斐と組んでから歩く速さにも磨きがかかったし、とにかく、甲斐以外の男には負けない気がする。


「よぉ」

一課に来たのだから甲斐が居るのは当たり前だとはわかっていても無意識に身構えた。

「なぁに」

ごくふつうに返したつもりでも知らず棘が出る。

甲斐のギプスは外れていて、あぁ治ったのだなと思った。快気祝いじゃないけど何か言葉をかければいいのにそれすら出てこなかった。

思うように振る舞えないのは嫌だなぁと思う。疲れるし、苛つく。

だから、デートしようぜと誘われても嫌だとしか答えられなかった。

甲斐の言うデートが恋人同士がする甘いそれじゃないことはわかっていた。仕事ではなく私用で話さねばならないことがあるのだろう。先日課長にお見合いの件も伝えたばかりだし、なんとなくは把握できた。


甲斐に春日さんとの結婚を勧められたら、きっといつもの言い合いになって、結局結婚すりゃあいいんだろって流れになっちゃう気がした。

あとに引けなくなって、結婚して、課長のしたり顔を見て、一課やめて、春日さんに甘える日々になる。

そんなの自分の理想とはかけ離れていて、やっぱり嫌だと思った。



帰り際、甲斐とエレベーターに乗り合わせて一言も喋らずに別れた。

社のエントランスを先に歩く甲斐の背中を眺める。


ずっと目障りだと思っていた。

後から入ってきたくせに最初からあたしの前にいて。

でかいから視界から外そうと思ってもずっといて。

どんどん進む背中を追いかけても全然追いつかなくて。

なんど噛みついてやろうと思ったか。

噛みついて小さくても消えない傷をつけて、何かの機会にあたしを思い出せばいい。


もうこの背中を見ることもあまり無くなるんだろうと思うと無性に寂しくなった。

「甲斐」

どうせ居なくなるなら自分から離れた方が楽だと思う。色々思うことはあれど、相棒として振る舞おうと決めたのだ。

甲斐の足が止まったのを確認して続ける。

「・・・受けることにした」

実際に春日さんと結婚しなくても、受けることにしたと言えば課長に対する甲斐の面目は立つんじゃないかと思った。無理にあたしとデートして話す必要もなくなるんじゃないかとも。

彼の負担が軽くなればいいと思った。

そっかそっか一安心、怪我も治ったしこれで俺も昇任に向けて精を出せるわ、くらいのことを言ってくれれば万々歳だった。


だから、振り向いた甲斐の笑顔が歪んでいたことに驚いた。

よかったじゃん、て顔してないじゃん。

「・・・甲斐」

全然嬉しそうな顔できてないじゃん。

表面取り繕うのは得意だったはずなのに、言葉と表情が相反していて訳がわからなくなる。

そのままくるりと後ろを向いて歩き出してしまった甲斐に、また上手く振る舞えなかったのかと悲しくなった。

もうこれ以上何か言っても拗れるだけだと挨拶の言葉もかけずに別れる。



自分が甲斐に対して相棒以上の感情を持った時点でおかしくなってるのは自覚していた。

でも甲斐だっておかしい。

体を動かすのが好きな彼が怪我して思うように動けなくなったのも、ワーカホリックのくせに仕事ができなかったのも、ストレスだったのはわかる。自分だってそうだったから。

でもここまでじゃなかった。

甲斐に何が起きてるのかと考えて、春日さんが言ってた言葉を思い出した。


刑事ってのは仕事柄、限られた情報の中で読み取ろうとする癖が------


あたしは近しい人に対してそうゆうことをしないからまだまだ刑事として甘いのかもしれない。

散々甲斐のこと考えていたけれど状況を揃えて相手の結論を出すということをしていなかった。

でも相手はこうなんじゃないかと決めるのはなかなか勇気のいることだ。

相手が甲斐なら尚更に。



「翔子!!」

呼び止められて振り向けば別れた筈の曲がり角まで甲斐は戻ってきていた。

それからはまた結婚の話でもううんざりだった。

なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないのと言いたくても言葉を挟む隙すらもらえない。

あたしが仕事バカだろうがオトコオンナだろうが料理ができなかろうが部屋が汚かろうが、あんたに関係ない。

あたしが誰と結婚しようが愛想つかされようが、あんたには関係ないじゃない。

仕事の話なら責められてもしょうがないけど、個人的な事を責める権利はないじゃない。

なんで一方的に言われなきゃいけないの。

恋人でもないのに。

ひとしきり悪態をつき終えてスッキリしたらしい甲斐はその勢いのまま言った。

「・・・俺と結婚しろよ、お前」


「・・・ばぁか」

しばらく二人で間抜けな顔で見合って、やっと絞り出したあたしの声は震えていた。

「・・・何に苛ついてんのかしらないけど、心にもないこと言ってんじゃねぇよ」

言われたあたしよりも言った本人の方が驚いた顔して、言うつもりのなかった言葉だって露骨に出して。

ビンタの一発でも食らわそうと右手を振りかぶって、甲斐に腕を捕まれた。

あんなポカンとした顔しといて腕だけ治ってるなんてずるい。

なんかもう、色々ずるい。

ぶわわと涙が溢れてきて、すんでのところで堪える。

甲斐がでかくて良かった。見上げて睨み付ければ零れなくて済む。

「あたしもバカだけど、あんたも大バカだ」


キスして

抱きしめて

春日さんとの付き合いを勧めたり

辛そうに良かったって言ったり

結婚向いてないって悪口言うわ

しまいには俺と結婚?


「・・・あんた、あたしのこと好きなんじゃないの」

絶対それはねぇよと確信していることを口に出したのが自分の胸をえぐる。

思いついたことをすぐ言っちゃうのがあたしの悪い癖だ。

なに失恋フラグ立てちゃってんの。

相棒としてだけ付き合うって決めたばっかりなのに。

「・・・もーやだ・・・」

目に溜まっていた涙で揺らいでいた甲斐の顔が全く見えなくなって、あたしは物心ついて初めて人前で泣いた。

「翔子」

甲斐に呼ばれて捕まれた腕に更に力を込められたけど涙は止まってくれなかった。