サウナを「善」にしたい人達

昨今、サウナが流行り始めてから「サウナ好きに悪い人はいない」「サウナは正義」「サウナ好きは大体友達」こんなフレーズを見聞きするようになった。ブームによって大衆化が進み熱心なサウナユーザーが増えたからだろう。それに加え「聖地」「極上の」「究極の」「至高の」こんなレトリックで虚飾されているのをよく見掛ける。サウナ万能説の様なものを唱えられる事が多く、サウナを取り上げるメディアはとにかくサウナ賞賛モードである。

サウナがテーマのムック本表紙に「サウナ is ピースフル」と書かれていた。サウナは平和なのか?平和じゃなかったらサウナではないのか?SNSでサウナに対する意見の相違で対立しているのをよく目にするので理解出来なかった。個人的に平和が理想なのだろうけど、そうじゃなくてもサウナは成立すると考えている。

「自分が好きなもの=善」という考え方は非常に危うい。「善悪」のジャッジが「好き嫌い」なのである。もちろん逆のジャッジもセットだろう。とても公平だとは言い難い。

 

 

サウナが善だとこうなる

もしサウナが「絶対善」だとしたら、例えば罪を犯した人がサウナを好きだったり、サウナに入ったからといって罪が消えることがあるかもしれない。裁判で「被告人は数々の罪を犯したがサウナ愛好者という事で無罪」となる。どう考えてもおかしい。逆にサウナが嫌いだから悪人とされてしまう事もあり得る。理性的な人には理解出来ないかもしれないがこんな冗談みたいな話が現実になる可能性がある。

サウナが善とされる程、記号化・アイコン化が進む。なぜなら善の要素を安易に自分の記号・アイコンにできるからだ。以前に「カリスマ」という言葉が流行った時、カリスマを自称・他称する人が大量発生した。現状のサウナはそれと似た雰囲気がある。

 

「サウナは善か悪か?」僕なりの結論

「サウナは善でも悪でもない」もしくは「サウナは善であり悪でもある」このいずれかまたは両方だろう。一つ一つの事象に善悪はあるかもしれないが、総体的に善悪など決められない。カテゴリーが大きすぎる。

例えば「地球やそこに住んでいる人は善か悪か?」といえば全員が善とも悪ともいえないから「善な人も悪な人もいる」となるだろう。それと同じだ。

悪人がサウナに入ったからといって免罪符を獲得する事にはならないし、善人がサウナに入ったからといって更に徳を積む事はない。

いまこの記事を読んでいる皆さんはなぜこんな当たり前の事をいうのかと思うだろうが、こんな当たり前な事をいわなくはいけない状況だからだ。

 

 

懐疑を通過していない意見は偏見である

流行をきっかけに熱心なサウナファンが増えた。本当に心からサウナを愛している人がかなりいるだろう。

刀鍛冶は熱した刀を打ち付けて形を作っていく。そして水で冷やして形を固定する。熱を帯びた個体は変化しやすく壊れやすい。逆に冷めた個体は変化しにくく壊れにくい。人の心も同じで情熱は変化を産みやすいし、冷静は固定を産みやすい。情熱的に盛り上がるのはいいが一度冷静になる事も必要であろう。

何かを賞賛する意見は情熱的な「熱」であり、懐疑的な意見は冷静的な「冷」である。

 

昨今の流行でサウナは熱くなりすぎた。ぜひとも一度冷まして欲しい。サウナ後のクールダウンは格別だ。