物事はすべて連鎖である。宇宙は巨大な実験場であり、その中で連鎖のように化学反応が起きているだけ。その中に私たちがいて、五感で私たちの身体の周囲だけを感じ取っている。

 

そして私たちもまたその化学反応の一部であり、ひたすらに連鎖し続ける。それだけのこと。

 

そういった自己や宇宙の在り方をありのまま見るところから理を始めることができる。

 

世界や自己の何たるかを知ることから、正しくありのままを見る。

 

我は思うゆえにあり、そして在るのは連鎖の宇宙である。

 

人が悩むのは答えを見つけられないから。そして答えを見つけられない理由は考えられないから。考えられない理由は考え始める取っ掛かりがないから。

 

 

多くの人は思考の起点が他者との関係性である。社会的な役割、知人と比較した自分、過去の経験に対する評価、、。すべて相対的なものを起点にする。

 

そしてそれら相対的なものは常に流動する。だからこそ悩む。絶対的な真理というものを取っ掛かりとできるのならば、それらの悩みは消えるのではないだろうか。

 

だから己とは何なのか、世界とは何なのか、その答えを出すことで迷いない人生を始められると仮定する。

 

 

先ほどの答えを身近なもので例える。

 

ゲームで言うなら己はプレイヤー。世界はゲームそのもの。

映画で言うなら己は観客。世界は映画館。

 

 

どちらにせよ、楽しみたければ楽しめばいいし、そうでなくともただ流れて進んでいくものだ。生まれてきたことそのものに意義も意味もない。意義を自分で見出すのもよい。それも一つのゲームの醍醐味だ。

 

 

まず正しく見ることがよい。世界を歪めてみることなく、ありのままを見る。

 

そしてこの考えは生きるうえでの武器になる。なぜなら、たいていの人は己というのが相対的なものであり、だからこそそれらに依存してしまう。

もし自分という存在が他者に依存するなら、人に流されたり社会の圧力に負ける。

 

その点、絶対的な取っ掛かりのある人間は強く生きられるのではないか。

 

 

もし己を定義するものが会社の役職だったらどうだろうか。その役職がなくなれば己を定義する一部が喪失する。だからしがみつく。

周りにとっての「優しい人、優等生」が己ならば、そぐわない失態をしたとき己を責める。周囲の期待に応えようと無理をする。

 

 

 

なにもそれらが悪と言っているわけではない。それゆえの悩みが大きいから、悩みたくなければまずこのカオスな世界や思考に一本の錨(イカリ)を下ろしてみては、と言っているだけだ。人生という大海で漂流しないように。

 

世界は連鎖の化学反応。自分はそれを知覚できる点。

世界はゲーム。自分は1プレイヤー。

世界は映画館。自分は鑑賞者。

 

 

だから、どうするのか。そこを考えるのは己次第。どうせなら楽しんだらいい。もしダメージを負っているなら、回復薬を探せばいい。詰まっているなら、攻略本を探せばいい。そこまで思考の高さを挙げられたなら、人生の視野は途端に晴れ渡るだろう。