人はなぜ生きるのか。それらについてたいてい深く考えることはしない。が、俺は昔から考えていた。
この世界が自分にとって、どういう意味を持ち、どう生きていくのか。それについて考え抜く。
「ただ生きる」というのは別に悪くない。出発点が、私は生きている→生きるためには食事がいる→食事のためには仕事がいる
のように、生きたいということを前提にして進んでいくのがきっと普通だ。
だが俺はなぜ生きるのか、という目的がなくても生きられるほど強く、鈍くはない。
性根が怠け者であるが故の生きることへの億劫さがある。
もし目的や理由がないのならば、俺は歩むことができず、のたれ死ぬだろう。
希死念慮はない。一切。
俺の性根の一部は、クラゲのように海にずっとぼーっと浮いていたいと言っている。
俺が会社を起こすのも、きっと根底にある怠惰は影響している。
そして、なぜ生きるのかということを考えるために、大前提として生きるこの世界を定義する必要がある。
世界のあらゆるものを包括する概念とは何だろうか。
それは、認識だ。我々は知覚しえないものについて語ることができない。ここでいう知覚とは、見える見えないの話だけでなく、「実験や論理など情報として知ることができるもの」も含めての知覚。
だからこそ、情報を含めて知覚しえない情報を除いたもの、それが「私たちの生きる世界」であり、それは=認識と言える。
生きる世界=認識 とするならば、そこから話を始めることができる。
生きる世界=認識ならば、認識の本質を突き詰めていけばそこにヒントはある。
今日はここまでにして、今度気が向いたら続きを書こうと思う。