労働というのは、現代において必要なことだ。社会システムを成り立たせるために必要なことだ。

 

 

それを美徳とし、生きることはその人にとってはいいことかもしれない。なぜならそこから抜け出す手段を持たないのならば、それを自身の人生において大切なことだと位置づけてしまうことで、人生における長い時間をささげることになるそれを受容し、つらくとも意義を見つけ、楽しむことができるからだ。 

 

 

 

しかしながら、それを人に押し付けること、その価値観を強要しようとするのはよろしくない。多数で押し付けるその価値観は暴力になりうる。だから、その価値観を大切にするのはよいが、それを押し付けるのは違う、と言いたい。

 

 

 

また、必要だからといってそれをすべての人が受忍し、やっていたら世の中何も変わらないじゃないか。自己洗脳と無理が前提の世の中を後世に残すことになる。自分の子供にも無理してほしいのか?それを否定する価値観の人間がいたっていいのである。

 

 

 

他方、価値観というのはどうしても押し付け合いになりやすい。価値観はその人にとっての正解なわけで、譲ることができないものだからだ。

 

 

数で押し付けたり、論理で押し付けたり。そして、西洋の論理での戦いに儒教ベースの東洋はめっぽう弱い。東洋の学問は多くが経験ベースで語られているから、論理を突き付けられると弱いのだ。というか、基本的に民衆は価値観を経験的に拾うことで構成しているから、論理を持たない。

 

 

またその価値観の多くは言語化されていなかったりする。だからこそ論理を持つことでその価値観を守り、お互いの対話のすべとして使えるようにすることは、世界的なコミュニケーションが可能になるのではないだろうか。

 

 

 

論理とディベート。これによって日本人は再び自身の価値観に自信を持てるはずだから、子供にひろゆきが流行っているのは悪いことではないのかもしれない、、、のか?

 

 

 

また、かくいう俺も価値観の押し付けを行ってしまう。俺の家族や周囲にとって、俺の価値観は極端に映る。そうなるとその行動にいちゃもんをつけようとする人が現れる。それは、他の価値観に反するものを持っているからだ。そしてそれに論理でコミュニケーションをとろうとするが、日本人はそれが得意ではない。結果言いくるめた形になる。ちがう。コミュニケーションをさせてくれ。

 

 

 

だがこれに関しては文化的、教育的背景を考えると仕方のないことなのだ。だからおれがコミュニケーションをしようとすれば、それは暴力になる。だから語ってはいけないのだ。こちらも人情仁義で会話をすればいいんだろう。

 

 

 

それで思いついたんだけど、ディベート用のchatGPTつくるのありだな。早速作ってみるか。AIひろ〇きとか名前つけたら流行るか?今調べたらあったわ。けどこれディベートはできなそうだから趣味でディベート特化アプリ作ってみるか。