大切な人、家族が疲れ、やつれて帰ってくる姿を見たい人なんていないはずである(そういうフェチの人以外は)。大切な人にはいつまでも健やかでいてほしい、心労など無くみんな自由に生きてほしいと思うのは自然な感情のはずだ。

 

 

 

そんな些細な望みを、この国のどれくらいの人が叶えられているだろうか。

問題は様々ある。お金に関する教育のなさ、それ故にマーケティングに踊らされる消費者、そして家族の生活コストが高止まりし、ハードワークに耐えねば首の回らない家族の増加。

 

 

 

そんな家族への献身的な犠牲によって、どれだけの家族が支えられていることだろうか。当人は苦を苦とも思っていない、そういうかもしれない。家族のためなら頑張れる、そういう人生の宝を持ち、それのために生きる幸福は俺もわかる。

 

 

 

しかし、体を壊し、やせ細っていく家族を見たい人なんているわけがない。そして、そういう現状に加担してしまってきたことに、支えられてきた家族は無意識に自責の念をもっているかもしれない。

 

 

 

まず、コストが高止まりしている原因のマーケティングは例を挙げればきりがない。例えば高額な学費と、大学へ行くことが必須であるかのような空気感。これはたしかに、一部社会主義的なシステムを持つこの国において、学歴はそれなりに重要視される。より国に近い会社に入れることが、この国における簡易的な高い階級と、ある程度みなされるようになっているからだ。

 

 

 

まず国の学生に対して教育しきれない国の制度と、大学側のマーケティング、予備校によるマーケティングに歯止めをかけられていない問題がある。これによって若者にとっての子供は高級品と化し、すでに子がいる親の首を苦しめる。

 

 

 

また、お金に対する教育が義務教育によってほとんどなされないことが、企業にいいよう世論操作され、それに踊らされる愚民を生み出し、倫理のない自由競争を加速化する側面がある。

 

 

 

そしてそういったマーケティングのターゲットになるのはまず女性だ。教育に狂った教育ママを生み出すのはマーケティングによる世論操作とすでに形成されたコミュニティによる集団的な意識による強制力だ。親は子によい人生を歩ませようと、金銭が不足する恐怖、社会的弱者になってほしくない恐怖を原動力にして子にお金をかけよい教育を受けさせようとする。周りがそうするから何となくそうする人も生まれる。これを宗教と呼ばずして何と呼ぼうか。

 

 

 

また、さらにターゲットになるのは多感な子供たちである。倫理のないマーケティング合戦は、子供の恐怖や差別意識を刺激し、受験戦争へと向かわせる。子供に大学の真価やそれにかかるコストのことなど考えられるだろうか。客観的で冷静に物事を考えられるようになるのは一説によると、25歳前後だといわれる。幸いにも私は大した額の奨学金を借りずに済んだが、これを満額で借りて多額の借金を抱えた状態で社会人をスタートする子供も生み出す。

 

 

 

世の悪い側面に目を向けると、簡単に上げるだけでこれだけの問題が見える。たしかに問題点を見すぎている感は否めない。当人たちも気づいてもいないし、問題にもしていないかもしれない。しかし、これら問題が日本の大きな問題である幸福度の低さに関係ないといいきれるだろうか。俺はそうは思えない。