行動基準が他人では良くないとか、自分軸で生きなさい、などの言葉は巷ではよく聞くものだと思う。

 

 

 

これらは確かに間違いではないのだが、この言葉自体に意味はない。この言葉で人生が変わった、なんて人は一人もいないはずだ。

 

 

 

まず考えてみてほしい、自分というものを定義するとき、結局は人との関係性で自分というものを定義している。どんな職業で、どんな性格で、、、なんてのはすべて他の人と比べたときの自分を述べているにすぎない。

 

 

 

また、自分といっているものも対して統合が取れていない。人生で同じ場面に出くわしたとき、コンディションによって発言も変わるし、行動も変わる、つまり一貫した自分なんて存在しない。なにか意見を述べるとき、心の中で意見は一つじゃない、例えば彼女が何人もほしいという自分の本能に近い心と、一人を愛したい心と、誰とも関わりたくない心は同時に存在する。その中でコンディションや周りの関係、状況に応じて一つを選んでいるに過ぎない。

 

 

 

それらを考えると、人である限り他人を外すことはできないし、自分軸における自分というのも非常に曖昧な言葉である。

 

 

 

おそらくこの言葉を最初に行った人間が言いたいのは、人に認められるために生きるのをやめよう、ということだろう。

 

 

 

人に認められるために生きると言うことは、霧をつかもうとすることに等しい。

 

 

 

極論人が自分を認めているかどうか、そんなものはわかりようがない。その人の頭を解剖してもその答えは出てこない。全く無駄な時間や悩みである。

 

 

 

だが、人に認められるために生きるのをやめる、と意識するだけでは不十分だ。それは、人は否定形を認識するのが下手だからだ。例えば「ドアを開けるな」と言われればその奥が気になるし、過去のトラウマがあったとして「それについて考えないようにしよう」と意識するたびにそのトラウマを思い出すことになる。脳に近いアルゴリズムを持ったニューラルネットワークアルゴリズムでも、否定形の命令を入れるのは難しい。

 

 

 

「〇〇しない」、ではなく「✕✕しよう」に変換する必要がある。「トラウマについて考えないようにしよう」→「趣味のバイオリンのことだけを考えるようにしよう」

みたいに、頭の中で勝手に変換するひとは失敗を繰り返しにくい人だろう。

 

 

 

だとするならば、今回の話に限っては「人に認められるために生きるのはやめよう」→「〇〇(なにか別のこと)のために生きよう」とすればいいんだろう。

 

 

 

まあ、霧を掴むために生きるのも自由なんだけどね。最後は全員死ぬだけなんだし。ただ、俺はすべての人が自分を含めすべての人のために生きる世の中のほうがその人にとっても、世の中にとってもベターだと思うけどね。

 

 

 

そもそも人が人に認められたいという欲求が生まれるのは、脳の社会的な機能を司る部分が、自己効用感を求めるから、というのが大きいと聞いた。

 

 

 

利己的な遺伝子というタイトルを聞いたことがあると思うが、利他的な行動に生物は報酬系が反応することがある。遺伝的に、利他的特性を気持ち良いと感じる生物が生き残ってきていて、そういう部分は確かに人間にもあるんだろう。