西原さつきです!
今日は少し長いブログなのですが、ドラマの監修をした時のお話を書こうかと思います✍️
テレビドラマ「六本木クラス」の脚本監修を担当することになったのは、今年の3月の終わり頃のことでした。韓国の人気ドラマのリメイクということもあって、きっと大きな反響を呼ぶことになると、当時のディレクターさんが意気込んでいた姿が印象的でした。
物語の中にトランスジェンダーの役があり、特にその辺りを中心に監修をすることに。監修というと何をするのか分かりづらいかもしれませんが、例えばキャラクターのセリフや、その子を取り巻く周りの登場人物たちの言動などをチェックしたり、伝えたいメッセージやコンセプトの部分を一緒に考えていくお仕事です。
小説とは違い、その時の気持ちや感情などについても記載が少ないため、役者さんの想像力が必要になります。一つの役に対して、悩んだり、考えたり、思いを馳せたり……。自分の身近なものに置き換えられるお芝居だと、イメージもしやすかったりするのだと思います。しかし、トランスジェンダーの役となると役者の方ご自身にそういった性移行の経験が無いことがほとんどのため、演技プランに迷いが出ることもしばしばあります。そういった時に側に寄り添って、気持ちを一緒に考えるのが私の役目です。今風に表現すると「メンター」という言葉がイメージに近いかもしれません。
いわゆる「芝居」「演技」という、視聴者の方が一番目にする部分を担われているのは、役者や監督(演出家)の方たちです。そのため、プロデューサーとの話し合いが終わると、次に役者の方と話すことがあります。役者の方にとって私のような指導や監修の存在というのは、強い味方に感じることもあれば、口うるさい親のように少し疎ましく感じる存在でもあるような気がしています。そのため、人によっては私としっかりとタッグを組んで撮影に臨むこともあれば、全く必要が無いという人もいたり、そのスタンスは様々です。
脚本はそういったドラマ作りの中でもまた独立した存在で、分かりやすく表現をすると「物語(ストーリー)の設計図」という存在になります。物語の全ての軸が脚本を中心に生み出されていて、お母さんみたいなものでしょうか。
六本木クラスの監修で印象的だった回は第10話です。その中の居酒屋「二代目みやべ」のスタッフでありトランスジェンダー当事者の"りく"が、ネット記事に自身のセクシュアリティを暴露されてしまう、というこのお話の山場のシーン。この部分で番組サイドの方達と話し合いを重ねました。彼らは「このままだとトランスジェンダーの人権侵害を助長することになり、偏見に溢れた作品となってしまうのではないか」という見解を持たれていて、一時はその内容について難色を示されていました。ストーリーを変更をした方が良いかもしれない、という相談を受けたこともあります。(結果的には「そのままで良いと思います」と背中を後押しすることになりました)トランスジェンダーの当事者が、ドラマの中でも悲惨な思いをすることになってしまう……その展開に、私も何度も考えを巡らせました。
ジェンダーに関する表現は近年とてもセンシティブになっていて、番組サイドとしても慎重にならざるをえない部分もあったのだと思います。
私は元々、男の子としてこの世に生を受けました。ですが、自身の性別に違和感を覚えた幼少期。自分の心と体が一致していないという状態。その感覚はとても暗くて重く、脱げない着ぐるみを着させられているような気分でした。中学2年生の時に見た「3年B組 金八先生」というテレビドラマをきっかけに「性同一性障がい」という存在を知り、それが結果的に自分の人生を大きく変えることになりました。
私にとって学ランを着用しなければいけない学生時代は「男」という強烈なラベルを貼られているような気分になり、それは今までの人生で最も辛い時間でした。学校にもあまり馴染めない時があり、家庭にも居場所がなくなった自分は、当時のLGBTQの方達が集まるコミュニティ施設に頻繁に出入りをするように。そこで性移行に必要な女性ホルモンや性別適合手術に関する情報を集め始めました。最も悩んだのは高校一年生の時。当時16歳の私は女性ホルモンによる治療を始めようか考えていました。ただ、女性ホルモンの投薬を始めてしまうと生殖機能が失われてしまいます。つまり、自身の子どもを持つことが永久的にできなくなってしまいます。自分を偽って、男性として振る舞って家庭を築くのか、それとも自身の子どもを諦めてでも自分の気持ちに素直に生きるのか。人生の重大な決断を高校生の時に選択しなければいけない気がしていました。それにはとても大きな覚悟が必要で、今振り返ってみてもよく決断できたなと思います。
そんなことを身の回りで経験をした私は、自分なりに「世界を変えよう」という思いで行動を始めました。私たちのようなトランスジェンダーの場合、基本的には自身の男として生まれた過去については隠して生きることが多いです。それだけ差別や偏見がまだまだ根強いからだと感じています。ただ、友人の死をきっかけに「このままで良いはずがない」と強く感じ、動き始めた時のことを今でもよく覚えています。それから、自身のセクシュアリティをオープンにする活動を始めます。きっかけがいくつか重なって、自分の人生を変えたテレビドラマに関するお仕事をさせて頂けるようになりました。大きなチャンスだと感じて、自分の想いはもちろん、身近なトランスジェンダーの友人たちの意見を集めて、それを作品のエッセンスに加えていきました。
つまるところ私は、みんなが幸せであればそれで良いのです。
関わってくれた人や身近な人達、自分の手の届く範囲の人達の幸せと平和を願っています。作品を通して、少しでも性に悩んでいる人たちの感情、抱えている思いを伝えたい。そのために私は、私の人生をかけてトランスジェンダーのことを世に伝えています。例えば今回のような六本木クラスだったり、それ以外にも関わらせてもらえた数ある物語たちを観てもらって、少しでも気持ちが明るくなったとか、前向きになれたというきっかけになっていたら嬉しいです。
特にドラマや映画というものには、みんな自分の憧れや理想が上乗せされます。それは作り手にも視聴者さんにとっても同じで、ドラマにはみんなの「こうであったら良いな」という願いがたくさん込められている。現実は上手くいかなくても、ドラマを見ている間は別の世界を体験できる……そんな力があると思っています。ですが一方で、ドラマの中のトランスジェンダーのキャラクター達は、まだまだ生きづらい日々を送っている。それは何故かと言うと「当たり前の日常」というものは、基本的にはドラマとして成立しないからです。敵がいて、トラブルが起きて、上手くいかない現状に涙を流す。物語として成立させるためには、そういった構図が必要になってくる。そして、そんな辛い話はドラマだけの出来事では無くて、現実のトランスジェンダー当事者の、その多くの人達にも同じことが言えます。現実の世界では、まだ乗り越えられないような差別や偏見が、とても多い。
私自身も、今でもふと自分の将来について漠然と不安になる時があります。子どもが産めない身体です。そのため今後も、家族を作ることが難しい局面もあるかと思います。それについては、なかなか処理が難しい感情で、寂しさや、虚無感に覆われる日も年のうちに何回か、たまにあります。ですが、いつの日かドラマのように困難を乗り越えられるように。「二代目みやべ」のメンバーのように、それを支えてくれる仲間がいつか、みんなにもできますように。そんな願いを込めて、作品をつくっています。
一歩ずつ、一歩ずつ。
彼ら、彼女達が「当たり前の日常」を、穏やかに暮らせる日々が訪れることを想像しながら。
『私は……私は……ダイヤだ』
テレビドラマ「六本木クラス」第10話で、トランスジェンダーのキャラクター"りく"が放ったセリフの1つです。
私は私以外の何者でもない。
何かの偽物でもない。私は、"私の本物"。
性別にとらわれずに、誰もが自分を愛せる未来。
いつか誰もが「このままで良いんだと」自身を肯定できるような世界がやってきますように。
私自身が、一番それを願っているのかもしれません。