こんにちは。

ライターの橘さつきです。

「家族と葬送」をテーマに書いています。

はじめましての方はコチラ

 

 

中川幸夫はもっとも私の心を

揺さぶるいけばな作家です。

 

その中川幸夫のいけばな作家としての

歩みを決定づける原体験となった

お話をいたしましょう。

 

 

昭和19年8月11日、

太平洋戦争の最中、

中川の故郷,香川県丸亀市から

出征していた丸亀連隊は

グアム島沖で明け理科の大艦隊の

猛攻撃を受けて全員玉砕しました。

司令官は責任を取って自決。

 

 

幼少期に脊椎カリエスを患ったために

兵役を免れ、兵事課に勤務していた中川に

その悲報が飛び込みました。

地元の友人、知人の多くがその戦没者となった

のです。

 

中川に命じられたのは、急いで千個の遺骨箱を

作ることでした。

 

遺骨はありません。

中には奉書をいれて。

中川がそれも筆で書きました。

 

「××××殿

昭和19年8月11日、グアム島にて玉砕、戦死されたり。

丸亀歩兵第十二連隊、第三大隊長

古屋 誠 大尉」

 

この古屋大尉も当然、亡くなっていたのですが、

戦死の報告は大隊長、もしくは連隊長から

届けることになっていたのです。

 

この古屋大尉に中川は見込まれ、

理髪師として来ないかと誘われていたのです。

もし同行していれば、

彼も間違いなく玉砕の一員になっていたはず。

 

中川は心を込めて、千個の遺骨箱を作りました。

すでに入手が困難になっていた白い布を、

手を尽くして探しだして、

遺骨箱を包みました。

 

 

近くの金倉川の土手に咲いている

曼殊沙華の赤い花をかき集め、

白い遺骨箱の結び目に飾ったのです。

 

血の色ともいえる赤い曼殊沙華の花は

合同葬の舞台を鮮烈に飾りました。

 

千個の白い布で包まれた遺骨箱に

結ばれた赤い曼殊沙華の花。

 

物もない戦時下で、

こんなにも豊かな心の

弔いがされていたのだと、

心の中でにその光景が

目に浮かびました。

 

 

千人の戦死者の悲しみをともにする

その遺族の

言葉に出来ない口惜しさと

悲しみをともにわかちあう

合同葬だったことでしょう。

 

戦争を知らずに生まれ育ちました。

 

戦争は過去のものですむのかと

不安になります。

 

人類の歴史の中で繰り返されてきた戦争。

 

心から平和を願って。

今日、8月11日を過ごしたいと思います。

 

 

「いけばな」の既成概念を覆した

鬼才、中川幸夫。

 

草月流の創始者 勅使河原蒼風は、

中川が丸亀から東京に出てくると

「恐ろしい男が花と心中しにやってきた」

と語ったといいます。

 

 

中川幸夫についてもっと知りたい方は

以下をご参考に。

 

 

 

 

映画「華いのち 中川幸夫」公式サイト (hanainochi.com)