新型コロナウィルスのパンデミックが

世界中を震撼させ、多くの命が奪われました。

 

医療現場が緊迫するなかで、

決断を迫られた、

命のトリアージに議論がわきました。

 

渋沢栄一『論語と算盤』

読んでいたら、

ビックリ、仰天の

「命のトリアージのお話が!

 

ぜったいに面白いから、最後まで読んでね!

後悔させませんよ。(笑)

 

 

儒教の教え を重んじた中国の歴代王朝では、

治世の上で “ 親孝行 ” が特に重要と位置づけ、

古く親孝行であった二十四人を取り上げた物を

『二十四孝』して、

後世の模範として長く語り継いできました。

 

渋沢は本のなかで

その『二十四孝』の一つの話、

郭巨(かくきょ)の例を挙げています。

 

どんなお話かといいますと、

 

我が子よりも親の命が重んずる中国の昔話

 

 

昔、中国に

郭巨という貧しい男がおったそうな。

母と妻と三つになる子を養っておったが、

ついに、家族を養うことが難しくなった。

「夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、

母親は二度と授からない。

ここはこの子を埋めて母を養おう」と。

口減らしのために3歳の子を連れて

埋めに行ったそうな……。

なんとまあ~、土を掘ったら、

釜が出てきて、

たくさんの黄金が入っていたんだと。

おかげで、我が子を生き埋めにしないで、

親も子も養うことができたというわけさ。

 

めでたし、めでたし

という孝行息子(?)のお話。

 

 

それで、渋沢栄一は

なんと語っていたかというと、

第五章 理想と迷信

「道徳は進化するか」の項で

次のように述べています。

 

「道徳というものも、

昔と現在とでは大幅に

変わってしまった面がある。

昔の道徳というものは、

進化していくことで、尊重すべき価値が

あまりなくなってしまうのではないか」

 

あ~、良かった。

渋沢栄一ほどの人物がこれを

良しとしたならばと、

ギョッとしました。

 

儒教の親孝行の考えにも、

親孝行は強いるものではないと。

 

しかし、「仁や義」といった

社会正義のための道徳は古今でもあまり

変わりはないとも述べています。

 

 

さて、福沢諭吉もこう批判していました。

『学問のススメ』の八編から

 

「父母を養うべき働(はたらき)もなく、

途方に暮れて罪もなき子を生きながら

穴に埋めんとするその心は、

鬼とも云(い)うべし蛇とも云うべし。

天理人情を害するの極度と云うべし。

最前(さいぜん)は不孝に三ありとて、

子を生まざるをさえ大不孝と云いながら、

今こゝには既(すで)に生れたる子を

穴に埋めて後を絶たんとせり。

何(いず)れを以て孝行とするか、

前後不都合なる妄説(もうせつ)ならずや。

畢竟(ひつきよう)この孝行の説も、

親子の名を糺(ただ)し、

上下の分を明(あきらか)にせんとして、

無理に子を責るものならん」

 

福沢諭吉さまのお言葉に

胸をなでおろしました。

私の言いたいことをすべて、

名文で語ってくれました!

その通り!

 

でもこの「孝行」のお話は

異国の大昔のお話で片づけてはいけないのです。

 

この『二十四孝」は実は日本でも、

御伽草子や寺子屋の教材にも

採り入れられたのです。

つまり、庶民の通念にこうした考えが

認められていたということです。

 

 

私は儒教の「孝行」に疑問を持って

いるのですが、

まだまだ勉強不足なので、ここでは

論じません。

 

でも、昔の貧しい暮らしの中で、

子は欠かせない労働力でした。

幼い子が奉公にだされ、

女の子ならば、身売りされてきたのです。

 

親が子を育てる義務よりも、

親のために働かなくてはならず、

子どもに「親孝行」が求めれた。

 

それを「徳」とする時代が日本でも

あったのです。

それほど昔のことではありません。

 

昔は、子どもは生まれても幼いうちに

亡くなるのは珍しいことではありませんでした。

 

感染症の恐怖も

今とは問題にならないほど。

 

検査もなく、原因もわからずに

次々と人が倒れ、死者が続発する

歴史が繰り返されてきたのです。

「死は移るもの」と「穢れ」として

人々に恐れられてきました。

 

「死」の恐怖から守り、

「穢れ」を祓うために

人々がすがった迷信も、

決して馬鹿にしてはいけません。

 

それしか不安を守ってくれるものは

なかった時代です。

ワクチンどころか、治療薬も

消毒液も、原因をしる検査薬さえ

ない時代です。

 

そうした時代に、

幼く亡くなった子は縁起が悪いと、

死後も粗末な扱いを受け、

別に葬られていたのです。

 

子は亡くなっても、

また産めばよいとされていたのですね。

 

働き手の大人が亡くなると、

一家全員が路頭に迷うけど、

まだ働けない、身体が弱い幼子は

お荷物な存在だったのかもしれません。

 

あー、本当に昔に生まれなくて良かったです。

 

子を育てる親の責任や自覚よりも、

「親孝行」が何より大事としてきた

ことは、ずっと人々の心の底流のどこかに

残存してきたのだなと、思いました。

 

我が子のうち、後を嗣ぐ長男だけが

特別扱いなんて、つい最近までも

当たり前のように聞く話です。

 

 

今も問題が続く、

親による子の虐待、ネグレスト。

「しつけ」と言って、暴力や暴言を吐く親。

親になるための教育こそが大切だなと、

感じています。

 

『二十四孝』には、

チョット、腰を抜かしそうな

親孝行の話が他にも出てきます。

 

親の葬式を出すために自分の身を売る話、

歯のない義母のために自分の乳をのませる嫁

などなど。

 

先祖が生き延びてくれたおかげで、

命のバトンを受け継いで、

今を生きている私たち。

 

そうやって生き延びてくれたからこそ、

今の私たちがあるのですが、

 

そこには隠された悲しい事実がきっと、

いっぱいあったのだと。

 

新しい時代に

考えたい問題です。

一人一人の命と人生が尊重される世の中に!