ありがとうございます


 お久しぶりです。


お元気でお過ごしでしょうか。

少し、元気になりました。

皆様のブログを少しずつ、読ませていただきながら…。


 
若くして亡くなった親友の話を。


ずいぶん長い文章なので、

お時間あれば…。

お読みいただければ、とても嬉しいことですが。


(彼女とはよく旅もしました。結婚までは。)



田舎や地方では
「タンス一本減らしても嫁の貰い手には困らない」
と言われたお買い得(笑)な職業でした。

女子4人が同一学校に配属され、

さすがに、

女子ばかり4人というのは珍しく、
         大きな研究会の発表会に

待ってましたとばかりに
発表者として指名されました。


    毎日毎日通常の仕事の他に


    研究発表会に向けての
   勉強と指導案作りや資料作り、
   並大抵ではない日々が続き、
  帰宅するのは9時をまわります。


帰ってまた、
明日の授業の準備と

研究発表会の準備をしますので

皆疲れ切っておりました。


それでも若かった。


             結果はどうあれ、
やり遂げた時、4人の同期は
ただの同期以上の感情が湧いていました。

その後、4人ともに違う道を歩くことになりました。


田舎では、教職に就いて、

辞める者など

当時では、ほぼいませんでした。


小さな頃から、薬剤師にと言われていたものの、人相手の仕事に就きたくてやっと説得して就いた職業でしたが


出会ってしまった夫と全国を転勤族としてまわる生活を選び、1番早くに辞める事になりました。本音を言えば、辞めたくはなかったです。



当時は、男女どちらが辞めるかなどの選択肢は無く、女子が辞めるのが当然という時代だったように思います。

(今も変わっていませんか?

出来れば、思いどおりの道を歩めるように願っています。)


やがて一人はアメリカに嫁ぎ、
もう1人は当時収賄が明るみになってやむなく辞職に追い込まれました。良い事ではありませんが、すがる縁故が有れば、力不足でもなりたいと思う人は縁故に頼ることもあったのかもしれません。

今は、人を育てる職に学業の成績だけで選ぶべきではないと思いますが、なりたい人は少ないでしょうね。



そして、誰よりも精神的にも強く、また忍耐力のある残りのひとり…

彼女とは、とりわけ深い付き合いを続けておりました。

どちらも結婚して忙しい毎日、加えて遠く離れていながら、どちらかが休みを利用して頻繁に会っていました。

特急電車で片道6時間半、それから乗り継ぎようやく会える彼女と私、よく続いていたと思います。一晩泊まってまた電車に揺られて帰るのですから。


思い出していると、もう10年たったことに気づき、今更ながらあまりにも若くして亡くなった彼女のことを無念だっただろうと思ってしまいます。


すみません、少し…。

また、続けられましたら…。


白天目茶碗で献茶