今日の夕飯時、中学2年生の次男との間で激しい言い争いになった。
事の発端は、次男からなにげなく切り出された、不登校だった過去への「後悔している」という言葉であった。
突然の告白であったが、私は「そうか、そうかもしれないけれど仕方ないよね、これから積み上げよう」と、前向きな解決を促すような言葉を返した。
しかし、これに次男は激しく反発し、「何も分かってないな、ただ共感だけしてくれたらいいのに」と言い放たれてしまったのである。
彼の心境を理解しようと努めていたはずであったが、どうやら私は彼が最も求めている「共感」を欠いていたようである。
その後、次男は「空白からの登校」がどれほど困難であるかを打ち明け始めた。
その切実な苦悩は、私が想像する以上に深く重いものであった。
次男が語った困難は、以下の通りである。
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連続性がない: 周囲の生徒との間に、過去の共通の話題や繋がりがない。
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反応がない場合が多い: 勇気を出して話しかけても、なかなか「反応がない場合が多く」、会話が続かない。
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思案する毎日: 毎日どうやったら打ち解けられるか「思案する」必要があり、「そんな連続の毎日がやってくる」。
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「わかるか?この努力」:最後に放たれたこの一言が、彼の孤独な戦いを物語っていた。
それは確かに大変な努力であると理解はできる。
しかし、私には「仕方がないのは仕方がない」という現実論も頭をよぎり、最終的に「結局、私は君たちには何の心配もしていないんだよ」という、私なりの激励を伝えたところ、次男は「そんな言葉は求めていない、何も分かっていないよな」とさらに激しく反発し、結局火に油を注ぐ結果となってしまったのである。
親として、息子の苦しみに寄り添っているつもりでいるものの、彼の真の意図を全く捉えられていなかったことを痛感している。
この出来事を通して、私は親として息子への向き合い方を根本的に違っていることを痛感した。
次男が求めていたのは、「解決」や「励まし」といった未来志向の言葉ではなく、「今の苦しみをわかってほしい」という切実な過去への共感であった。
私が安易に伝えた「仕方がない」「心配していない」といった言葉は、彼の孤独な努力と苦悩を否定するものであったと深く認識する。
今後、私は「解決」を急ぐことをやめ、彼の言葉の裏にある感情をまず受け止めることに徹するべきなのであろう。
「共感だけしてくれたらいいのに」という彼の願いは、今後の対話における唯一の指針となったのである。
出口の見えない迷路の中にいる状況は変わらないが、まずは彼の努力を肯定し、ただ隣に立ち続けること。
それが親として今できる唯一の道であると再認識する。
このような対話が一体どこに向かうのか皆目見当がつかない状況ではあるものの、一歩ずつ、立ち止まって彼の声には耳を傾けていきたいと思う。