人間は、「歴史から学ぶこと」を忘れてはならない──小林多喜二「1928年3月15日」から考える | TABIBITO

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 「『殺せ、殺せーえ、殺せーえ!!』
 それは竹刀、平手、鉄棒、細引きでなぐられるよりひどく堪(こた)えた。
 ……
  針の一刺毎に、渡の身体は跳ね上がった。
  『えッ、何んだって神経なんてありやがるんだ。』
  渡は、歯を食いしばったまま、ガクリと自分の頭が前へ折れたことを、意識の何処かで意識したと思った。──
  『覚えていろ!』が終わりの言葉だった。渡は三度死んだ。」
 
──これは、戦前のプロレタリア作家の小林多喜二の小説「1928年3月15日」の一節である。
 
 
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3・15事件──これは、今から89年前の1928年(昭和3年)3月15日に行われた、日本共産党や労働農民党をはじめ、労働運動、社会運動などに関わる人々(あるいは「…と疑われる者」)への大日本帝国政府による一斉弾圧であり、全国で約1600人が検挙された事件である
 
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その大弾圧行為の根拠となっているのが、1925年(大正14年)3月に成立した「国体を変革しおよび私有財産を否認せんとする」結社・運動を禁止する「治安維持法」であり、これによって、「国体を変革する」という疑いをかけられた個人を政府が逮捕・投獄することが可能となったことによる。
 
特高警察による検挙者に対する拷問は残虐をきわめた。当時中国との戦争の道を進もうとする政府は暴力で反対運動を破壊しようとしたのであった。小林多喜二は、小説「1928年3月15日」に、この弾圧の真相を全身の力を込めて描いたのであった。
 
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小林多喜二は1903年(明治36年)10月13日、秋田県の貧しい貧農の長男として生まれた。4歳のときに、一家は北海道・小樽のパン工場を営む叔父を頼って移住した。多喜二は叔父の援助を受けて小樽の高等商業(旧制)を卒業し、その後北海道拓殖銀行に入社した。

多喜二は、中学の頃から文学に目覚め、学生時代から同人雑誌に小説を発表したり、そしてさまざまな文学活動を行ってき。彼が銀行に就職した頃、北海道、特に小樽周辺では、小作争議や労働争議などが盛んで、彼は銀行員としてそうした争議などを裏側から見ることになる。
その当時の日本は、金融恐慌の最中で、銀行の倒産が相次いだ時代。都市では企業の人員整理や倒産がつづき、失業者が氾濫し、農村でも不況は深刻で、身売りする女性が激増した。

そんな時代に、多喜二は、当時盛んであったプロレタリア解放の思想に触れて行き、労働運動にも連帯する中で、次々と小説を発表し、「1928年3月15日」(1928年暮れ発表)や「蟹工船」(1929年発表)などが世に出ると世間に衝撃を与え、プロレタリア文学を代表する小説家となる。
 
治安維持法下で、地下活動をする中で、最後は1933年、29歳で、当時の特高警察に逮捕されて、そして検挙されてから7時間後に留置所で拷問されて亡くなった。
 
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多喜二は、まじめ一方の人と思われがちだが、彼は、小樽で銀行員をしていたころは、映画が大好きで、洋画、邦画を問わず見ては批評を書いている。そしてカフェに行って友達と遅くまで酒を飲むこともあるなど、彼が来るとその場がパッと周りが明るくなるような、そういう一種のオーラを放つようなキャラクターだったという。

そんな多喜二を拷問のうえ死に至らしめたのは、先に述べた治安維持法という法律であり、特高警察だった。

「1928年3月15日」での特高警察による拷問をリアルに描いた小林多喜二は、1933年2月20日、その小説と同じ様な方法によって築地署での3時間にも及ぶ拷問によって取り調べ中に殺された。
 
その拷問の凄惨さは、安田徳太郎医学博士とともに遺体を検査した作家・江口渙が「作家小林多喜二の死」で、次のようにリアルに描写してる。
「……首には一まき、ぐるりと深い細引の痕がある。よほどの力で締められたらしく、くっきり深い溝になっている。そこにも、無残な皮下出血が赤黒く細い線を引いている。左右の手首にもやはり縄の跡が円くくいこんで血がにじんでいる。だが、こんなものは、からだの他の部分とくらべるとたいしたものではなかった。さらに、帯をとき、着物をひろげ、ズボンの下をぬがせたとき、小林の最大最悪の死因を発見した私たちは、思わず『わっ』と声をだして、いっせいに顔をそむけた……」
 
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大正デモクラシーの機運がひろがり、1918年に冨山の米騒動が全国に波及、小作争議や工場労働者のストライキが頻発するなど、社会的な運動が各地で起こり、労働運動も発展した。政府は、これらを弾圧するための「過激社会運動取締法案」を上程すしたが1922年に、報道機関などの反対で廃案になった。
だが、1925年4月に普通選挙法(といっても25歳以上の成人男子だけで女性に選挙権は与えない)と抱き合わせで治安維持法を成立させた。「アメ」と「ムチ」の政策で、後者は「ムチ」どころではない弾圧立法だった。
 
治安維持法は、当初は「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。
特高はスパイも使い、多くの人々を検挙し、残虐な拷問で自白や転向を強要した。
 
しかし、治安維持法は、3・15事件後の1928年6月にさらに改正され、「国体変革」に対する罰則を強化し、最高刑を死刑とした。また、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行の為にする行為」を、結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとした。国家に反対する政党・結社に加入しなくても、資金カンパなどそれを援助する行為はもちろん、当局が「為ニスル行為」と認定すれば取り締まりが出来たので、民主主義や自由、平和を求める考え、宗教など関わる者に対しても特高警察の刑事やスパイがつきまとわれるという監視社会となっていく。
 
なお、治安維持法の改正に反対した山本宣治衆院議員は右翼の暴漢に殺害された。
 
政府は、さらに、1930年から33年にかけて、「共産主義に共感を抱いている」として、多数の教員を処分した。
そして、満州事変後は、軍の青年将校によるテ口やクーデター未遂が相次ぐ中で軍国主義への傾斜を強めた。1941年に「国防保安法」を公布し、外交・財政・経済上の「国家機密」の取得を制限した。
 
こうして「大政翼賛会」と「国家総動員体制」によって「戦争国家」態勢が築かれて、やがて満州事変から、中国全土への泥沼の侵略戦争への道をつきすすんだ。そして、たえず、これに反対する国民を治安維持法と残虐な拷問によって根こそぎ弾圧していった。これが戦前の歴史だった。
 
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治安維持法が制定された1925年から廃止されるまでの20年間での犠牲者は以下の通りである。
逮捕者数 数10万人
逮捕後の送検者数75,681人
実刑 5,162人
虐殺死 90人
拷問・虐待が原因で獄死  114人
病気その他の理由による獄死  1,503人  
 
 
 
戦後、治安維持法は、日本がポツダム宣言を受諾したことにより、政治的自由の弾圧と人道に反する悪法として廃止された。しかし、その犠牲者に対して政府は謝罪も賠償もしていない。ドイツでは連邦補償法で、ナチスの犠牲者に謝罪し賠償し、イタリアでも、国家賠償法で反ファシスト政治犯に終身年金を支給しているなどからみれば、ただちに謝罪と賠償をすべきである。

 
今度の通常国会で安倍政権が「共謀罪」(テロ等組織犯罪準備罪)法案を提出する動きがある。これについては、「現代の治安維持法」だとの批判の声が高まっている。
 
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これまでも、安倍政権は、「何が秘密か」が秘密の「特定秘密保護法」(2013年)、武器輸出の解禁(2014年)、そもそも憲法と真っ向から反する「安保関連法」(2015年)、盗聴法・刑事訴訟法改悪(2016年)と、国民の批判を押し切って、歴史を逆戻りするような法律を次々と数の力で強行してきた。
そして今回の「共謀罪」法案だ。
 
期せずして、「森友学園」国有地の格安払い下げ疑惑で、塚本幼稚園で幼稚園児に「教育勅語」を暗誦し、軍歌を歌わせていることが連日テレビで報道されているが、安倍首相夫妻は、当初、その「教育方針」については、高く評価していのである。
 
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まさに安倍首相の「美しい日本」「日本を取り戻す」というのは、戦後に否定されたはずの戦前の「国家体制」の復活なのではないかと、少なくない人が思ったではないだろうか。
となれば、今度の「共謀罪」も、戦前の「多喜二の時代」にあったような「監視社会」へと逆戻りしかねないのではないかと疑念を持たざるをえない。
 
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今こそ、「1928年3月15日」と多喜二の虐殺死──その歴史の教訓を忘れてはならない。
 
 
多喜二の母・セキの生涯を描いた映画「母 小林多喜二の母の物語」が2月25日から、横浜市中区の横浜シネマリンで上映されている。三浦綾子さん原作の小説を、実写版「はだしのゲン」や「裸の大将放浪記」などの製作に携わった山田火砂子(ひさこ)監督(85)が映画化したものだ(3月24日まで上映=問い合わせは横浜シネマリン=電045-341-3180)。今後、順次全国で上映されるという。
 
反戦を訴え、人びとを搾取する社会からの転換を求めた多喜二の信念に、苦悩しながらも寄り添おうとした母セキ。特高警察の拷問を受け、虐殺された後も、「息子は悪いことをしていない」と強い思いを抱いて生きたセキの姿を女優の寺島しのぶさんが演じる。
 
共謀罪と同じ趣旨で政府が「テロ等準備罪」の創設を目指していることなどから、山田監督は「戦前に戻るのか、と思っている。思想に関係なく、一般の若い人に『戦争しちゃいけない』と伝えたいからこの映画を作った」と語る。
 
三浦綾子原作「母 小林多喜二の母の物語」ダイジェスト版がある。
 
このダイジェスト版の冒頭で、多喜二が母セキと一緒に海辺を歩くシーンで、母に多喜二が言った言葉が今に生きると思う。
 
「人間にはしていいこととして悪いことがある。それがわかったとき、本当にこの世が変わるんだ」
 
人間は、「歴史から学ぶこと」を忘れてはならないと思う。