東海道新幹線開業50周年──栄光の陰に名もなき210人の殉職者がいたことを忘れてはならない | TABIBITO

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東海道新幹線が昨日1日、開業50周年を迎え、JR東京駅(東京都千代田区)の新幹線ホームで「出発式」の式典が行われた。
式典には昭和39年生まれの50歳の利用客なども参加し、関係者がテープカットをして開業50年を祝った。
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東海道新幹線は1964年10月1日に開業。年間1億5500万人が利用、これまで延べ約56億人が乗車し、走行した総距離は地球5万周に相当する約20億キロに達するという。
1964年、開業時最高時速は210キロ、それまで6時間半かかっていた東京~新大阪間を僅か4時間で結んだ。

どのニュースも、時速200キロを超える「夢の超特急」の完成は、「高度経済成長」の象徴であったこと、さらに東京オリンピックを前にして日本の鉄道技術の高さが世界を驚かせたことを報じていた。
 
 
そんな中で、「毎日」9月30日付「夕刊」の「特集ワイド」が、別の視点からの報道をしている。「開業50周年 新幹線建設の影に 名もなき殉職者210人」と題した記事である。
 
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最初にこうある。
「10月1日開業50周年を迎える東海道新幹線。幾多の困難を実現した技術者たちの物語は戦後の成功譚の一つだが、建設現場で多数の殉職者を出したことはあまり知られていない。『夢の超特急』実現の陰で何が起きていたのか。もう一つの歴史を追った」
 
 
「東京と大阪のほぼ中間」という静岡県湖西市の下り新幹線の線路脇に工事中に犠牲者となった国鉄職員や作業員らを祭る「東海道新幹線殉職者慰霊碑」があり、碑の裏に210人の名前が刻まれているという。
 
「世紀の難事業」と評され、1956年(昭和31年)6月から着工し、7年かけて新幹線開業の前年1963年(昭和38年)6月に完成した黒部ダムの殉職者が171人だった。また、記事には書かれていないが、1961年(昭和36年)3月から1988年(昭和63年)3月まで27年かけてつくられた青函トンネルの殉職者が34人であったこと比べれば、この新幹線工事の殉職者の多さが実感できる。
 
新幹線工事は、1959年(昭和34年)4月から、東京オリンピック開会直前の1964年(昭和39年)10月までの5年半であった。
なぜ、多数の殉職者を出したのか。記事の中では次のように指摘している。
 
「開業9日後に始まる東京五輪に間に合わせるため、突貫工事だったという話しはよく知られている。前出の『工事誌』の序文やあとがきでは『全職員が夜を日に継いでの捨て身の努力の結果、辛うじて所定の期日に間に合わすことができた』『正直に申し上げてすべり込みセーフ』と明かされている。
 また、用地買収が難航したことも工期不足に拍車をかけた。東京─大阪間の線路用地1180万平方メートルのうち、買収対象は960万平方メートル、地主ら交渉相手は5万人。……(略)…… 開業時の国鉄技師長、藤井松太郎氏は『昭和34年着工以来、5年余で完成したということになっているが、実は用地の買収が難航して2ヶ年近くをそのために費やしたので、実際の工事期間は3年半くらいに過ぎない』と書く。最後の用地買収が完了したのは、実に開業まで1年を切った64年1月だった。」
 
別の記事で目にしたが、公共工事の殉職死の数は、「総工費」の金額が大きくなり、「工期」が短くなるほど増えるという説もあるという。
 
いずれにしても、「五輪に間に合わせるため」と、故郷に家族や兄弟、小さな子どもいた多くの若い「命」が粗末に扱われていなかったのか。
 
 
記事では、工事中の事故で命を落とした作業員たちが、どうして新幹線工事に携わるようになったのか、そしてその遺族の率直な言葉が取材されている。
 
当時は、工事のために、東北地方をはじめ全国の農村から人が集められた。
岩手県から出てきて静岡県熱海市付近で作業中に亡くなった清水民也さん。8人兄弟の次男だったが、長男を幼い時に亡くし、事実上の「長兄」として一家を支えようと高校卒業後新幹線工事へ。毎月の給料だけでなく「妹たちに見せてやりたい」と、当時珍しかったテレビの購入資金も送ったという。
 
イメージ 2記者が、「どうしても取材したい人」として、当時28歳で横浜市のトンネル工事に携わり、落盤事故で生き埋めになり、奇跡的に40時間後に救出された山川邦夫さんを捜して愛媛県の親族を訪ねたが、4年前に他界していた。農家の長男だった山川さんは、新幹線工事や黒部ダム関連のトンネル工事に携わってきたが、晩年はじん肺を患い、入退院を繰り返したという。
 
その山川さんの妹、加地房子さん(73)の言葉が短いが重みがある。
「トンネルをくぐったり、橋を渡ったりするたびに思うんです。今の便利さはたくさんの人の犠牲の上に成り立っているんだって」
 
その通り。そのことを忘れてはならないと思う。
 
 
 
同時にこの新幹線の建設と青函トンネル、本州四国大橋などの採算を度外視した巨大インフラ建設によって巨額な赤字が生まれた。そして、そのツケが労働者に回され、1987年の国鉄分割・民営化によって、国鉄から「JR」に移行する際に採用を拒否するなど、大量の労働者が解雇され、嫌がらせや差別を受けた200人近い労働者が自殺した。
 
そして、そうした「利益最優先」の経営体質が、その後の107人が死亡したJR福知山線の事故(2005年)、JR北海道での事故や不祥事の連続(2013年)などを引き起こす要因ともなったということも忘れてはならないと思う。
 
 
 
 
さて、もうひとつ。その一方で、開業して以来、東海道新幹線は「事故による死者はゼロ」だという。

昨夜、テレビの報道番組で、東海道新幹線50周年について報じるなかで、新幹線車両の騒音対策や安全対策などについて特集していた。
 
新幹線の車両が進化を遂げて、その形から愛称も「団子鼻(0系)」から「鉄仮面(300系)」「カモノハシ(700系)」へと変わったが、その形状は、流線型にして空気抵抗を少なくし、早く安定して走るためだけではなかったという。
 
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沿線に住宅地が多い東海道新幹線ではスピードだけでなく騒音対策も不可欠だった。特に、トンネルの出入りする際などは、騒音とともに風圧もものすごいという。
番組では愛知県のJR東海の研究室で時速300キロを再現する風で、様々な車両の形で騒音の度合いを計測する研究が行われていた。

また、何よりも「安全性」が最重要課題だして、初代0系の車両設計に携わってきた久保敏氏は、新幹線の「安全性」を確保するための最も大事なことは「まず止まること」だとして、「早く走るためにまず『止まること』から設計した」と述べていた。
「危険を察知したとき、1秒でも早く停車できることこそが安全を確保する道だ」とキッパリと言っていた。
「いかに早く走るか」を追求した新幹線。しかし、そのために同じように「いかに早く止まるか」「いかに安全に止まるか」が徹底的に追及された。
そのプロ意識と技術には拍手を送りたい。 
 
 

 
 
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