写生について考えてみた。数年前、野火紙上に岡田日郎氏の句集『霊鳥』を紹介させていただいたことがある。その時私は「句作の場では自然に対して、人間であることを忘れることが出来るのが真の俳人だろう。」と分かるような分からないようなこと書いている。
水草の総紅葉して山上湖 日郎
日射すまま雨雲走り山紅葉 〃
『霊鳥』から引いた。この句の中には対象を見つめている作者以外の人間はいない。熟練のカメラマンが最適なアングルで撮った作品のように自然が言葉で自然が描かれいる。
夕暮れの耳のうしろを秋の風 孝夫
籾殻のけむりが横に流れけり 〃
「野火」11月号の主宰の句。一句めには耳を吹かれる作者がいて、二句目には籾殻を焼いて去った人がいる。
優劣をいうつもりはない。刃物で刻むように書くか、少し先が丸くなった使い慣れたペン先で書くかだろう。ただ、私は手つかずの自然(めったに無いが)の前に立つ、どうしても気後れしてしまう。
旧安田庭園とスカイツリー。人工の自然。