数日、寒い日が続いている。掛け布団が薄かったせいで睡眠が浅く、冷えて三度トイレに起きてしまった。それでも歳をとったせいだろう。早く起きてしまう。今日は野火俳句会の部長会、理事会だった。議事はスムーズに進行したが、それでも夕方までかかった。それほどの問題も無く、みんな志は同じなのだが、こういう会合はどうしても時間が長引いてしまう。俳句のように極力言葉を惜しんで後は読み手にまかせるという訳にはいかないようだ。どうしても省略できない手順があるのだ。会場の赤羽まで行く電車の中で「『俳句編集ノート』鈴木豊一著」読んでいたら「人生第一義の道を詩を生むことにおくか、俗務俗念におくか、俳人もまた常にその関頭に立つ。」という一節があった。俳句結社の運営にあたることは俗務俗念とは言いきれない大事な仕事だが、詩の生むことの第一義ではないだろう。でも楽しいこともあるので「まあいいか」などと思っている。

さびしくてならねば菊を買ひに出ぬ

蕎麦を刈るかかる真昼のかそけさに

 「野火」を創刊主宰した篠田悌二郎の『青霧』から引いた。昭和八年の「野火」「を主宰する遥か以前の作品である。当然生活のために俗務俗念の中に身を置いていただろう。でも、この澄明感。悌二郎にとっての人生第一義が想像できる。