このブログを野火俳句会のHPにリンクしていただいたので、以前HPに掲載した記事を記録のために掲載します。もともとこのブログは誤って削除してしまった旧HPで毎週土曜日に更新していた「今週の一句」の続きのつもりで始めたので。
とうすみの影より淡き翅を閉ず 石田郷子
(『俳壇』9月号俳壇月評より)
「影より淡き翅」という措辞が素敵だ。実は近所の農道でとうすみ蜻蛉を見かけて以来、この数日この句と同じような情景を詠みたくて考えあぐねていた。だから掲句を読んだ時は驚きとともにちょっと落胆した。私の方は「影の無き翅」と手帳に書いてそのままになってしまっている。石田郷子さんの作品と比べるのはおこがましいが「影より淡き翅」とは雲泥の差がある。理屈ではない。「影の無き翅」はどうもぎこちない。掲句を読んでしまったので、私とってこの素材の句を書くことは相当ハードルが高くなってしまった。こんなことは俳句ではよくあることだ。ただ、菅野主宰がよく指導するように俳句は言葉の組合せで良否が決まる。諦めずに類想の中の独自性を追ってみようかとも思う。
虹かけて華厳の滝の脇の滝 菅野孝夫
(『野火』9月号より)
大きな滝の脇には必ず小さな滝がある。その脇の滝に虹をかけさせたところが俳句らしい。目線を変えて本質に迫るのが俳句だろう。言葉をアンダースローしたような句だ。直球でも変化球でもなく、いくらか浮き上がりながらストンととストライクゾーンに落ち着いくという感じ。主役でない滝に焦点を当てたことによって、その寓意を読もうとする読み手もいるだろうが、その必要はまったくないと思う。作者が描こうとした情景の美しさを楽しむのが鑑賞の第一義である。同時発表の「滝となるまで何事もなき流れ」も同じ。句会で自分の作品や取った句を様々に解説する人がいる。それはそれで悪い事だと思わないが、大方は常識論でつまらない。
足首に靴下の跡秋の浜 君子
(9月5日春日部句会より)
この句、「秋の浜」が気に入らなかったが〇を付けた。九人中四人が取った。秋の浜が良いとコメントした人と首を捻った人とに意見が分かれた。足首の靴下の跡に注目したのは君子さんの手柄だ。さて、そこまで出来て季語に何を持ってくるかが難しい。人が去った後の秋の浜は懐かしくて淋しい。当然候補にあがる季語だと思う。初秋の渚を半ズボンやワンピースで歩く姿は容易く想像できる。そういう意味ではこの斡旋にけちをつけた読み手は天邪鬼なのかも知れない。だが、俳人は大方嘘つきである。正直者では読者を騙せない。結局、この日の句会ではこれだという季語は見つからなかった。