昨日(もはやおととい)が
濃かった話し、その2。
ショーコちゃんのお片付け、
個人面談zoom。
片付けという切り口で
生き方のコンサルをしてもらった
すんごい時間だった。。
今までだって「断捨離」の本を読んだり聞いたり
”ときめきで選ぶんだ!”ってやってきたけど
もっともっと奥が深かった。
ていうか、
片付けという切り口が
そのまんま生き方に
直結で繋がっていた。
片付けは
捨てられない裏にある
私のエゴキンを
探して
見つけ
何なのかを感じ
それを
ミセスエゴにまで浄化するところまでいける。
これまでの私と(過去)
これからの私を(未来)
繋ぐことも
断ち切って
新たに展開させる
きっかけにすることも、
私の生活という
一番身近で
一番日常の場において
だからこそ
私のために最高の舞台を用意できるんだって✨
私が選ぶ
私が決めたもの
を
厳選する。
この
厳選する
ってことが、
片付けを通して
自分のど真ん中を感じる
トレーニングだったとは。
(しかも毎瞬「私が選ぶ、決める」をするから
力強さも戻ってくる感じ)
ただ物を減らせばいいわけじゃなくて
ただ捨てればいいわけじゃなくて
なんで残すのか
なんで捨てるのか
なんで今まで捨てられずにいたのか
これがわからないと
エゴキンは姿を変えて
また違う形で現れるだけだから、と。
この背後の隠れた意識を探るのに
ショーコちゃんていう
最強に心強い応援団長であり
ソースの化身であり
私の潜在意識を言語化してくれる天使が
傍らにいてくれながら
そこに目を向けるなんて
心強い
しかなかった。
ショーコちゃんのお片付け発信を
キャッチするようになってから
それでもずいぶん
捨てること
スッキリしていく過程を
気持ちいい “一致” 目線で
楽しめるようになってきていた私。
(これだけでも本当ぉにありがたかったのだよ!!!😭✨)
あとは時間をかけて
一箇所ずつやっていくだけだと
思っていた私。
だからzoomで一箇所
片付けに付き合ってくださるというときに
どこをやろうか悩んだ。
ただお付き合いさせてしまうだけかも
なんてすら「わかった気」になっていたの。
そんな意識でいながら
あえて一番着手しにくいような場所を
選ばせていただいた。
着手しにくい私の理由は
「時間がかかる」
だと思っていたのに、
違った。
全然違った。
ショーコちゃんの質問で
その「時間がかかる」理由は
ていうか、そのモノたちを
今まで20年近く捨てられずにいた
私の理由は、
“なくなってしまう不安”
だったんだと
気がつかせてもらったの。
それは
大学生時代の資料たち。
大学の授業資料、
実習での資料、
学生時代諸々の
さまざまな書類たち。
そこに書いてある
「情報」はもちろん、
それを捨てることによって
私の過ごした思い出さえも
失ってしまうような
寂しさが
背後には隠れてた。
出会った人との繋がり。
楽しかったあれこれ。
それらが書類資料たちと一緒に
捨て去られてなくなってしまうような気がして
だから捨てられなかったんだと
気がつかせてもらった。
でも、
そんなの全部幻想だって。
私が出会ってきた事実は
変わらない。
失われない。
出来事も
人も
聞いた話も
なにもかも
今すぐに思い出せるかどうかは別として
今も連絡を取り続けてるかどうかは別として
私から消えて無くなるものなんて
なにひとつないの。
過ごした過去の出来事は
なにひとつ
変わらないの。
出逢った人も
消えて無くなるなんて
ないの。
思い出も
すべて無くならない。
目の前に“物質”として
資料を残しておくことと
今の私が体験してきた出来事とは
実は
関係が
ない。
それが分かった瞬間、
全部手放そうって
心から思えた。
だって20年近く
一度も開くことがなかったモノたち。笑
もう「今の私に必要?」という
問いさえ空回るくらい
明らかに今は必要のないモノたち。笑
捨てることが
心から腑に落ちたら
捨てたあとの爽快さとワクワクが
目の前に広がって見えた。
捨てた後に待っている
新しい世界さえ
予感できた。
私としてはもう気持ちも明確になったし
このまま紐をかけて全処分!でいいと
思ったけれど、
ショーコちゃんは
全部取り出して広げてみてほしいと言う。
でも、ここからが
さらなる発見だった。
作業中に、
つい(←これまでのクセだから始めのうちは仕方ない)
びっしり一生懸命に書き取ったであろう
ノートやメモを見て
「この話、もう一度目を通しておきたいな
(捨てちゃう前にもう一度頭の中に入れておきたいな)」←不足してるという不安感から
てなる瞬間もあったけど
ショーコちゃんが
言ってくれた
全部ナオちゃんのなかに“ある”から
って言葉に背中を押してもらった。
そしたら、
そこに詰まっているのが
“情報” ではなくて、
そこに流れている
“頑張って書き記した過去の私”
だけが見えてきたの。
すかさず隣でショーコちゃんが
「頑張ってましたね〜」
「ありがとう〜」
と言葉にしてくれて
賞賛にフォーカスすることまでできた。
それもすごい体験だった。
「うわぁ〜、まじめに頑張ってたんですね!
それもこんなに一生懸命に!!」
て
何度も何度も
ショーコちゃんが言ってくれた。
なんて天使なお方。涙
私は学生時代、
不真面目な生徒だったと
ずっと思っていた。
なぜなら授業中は
ほぼずっと寝ていたことしか
覚えてないから。笑
特別に興味が向いた先生の姿やシーンに
なんとなく記憶はあるけど、
それだって専門的な内容は
ほぼ覚えていないし…
私は
大学には
友だちに会いに行ってた。
おしゃべりして
恋バナして
サークル活動にたまに顔出して
飲み会行って…
そんな記憶だった。
遊んでばっかり。
それはそれで
否定してたつもりはないけど、
その後20代後半から通った
オイリュトミー学校では
本当に真剣に集中して授業も受けてたし
内容もそこでの体験も
ありありと私の血肉になってるという
実感があるからこそ
余計にそれと比較して
大学はスカスカだったなぁ😅
なんて思ってた。
昨日まで。
でも出てきた資料は、
かなり一生懸命メモしたノートもあったし、
あちこちの教育実習での資料が
山ほど出てきて、
しかもその多くに
真剣な手書きメモが記されてた。
頑張ってたんじゃん私。
教育について
やっぱ興味があったんだな。
しかも座学(先生の話を聞く)は
苦手だったけど、
実習(体験型)は
真剣になるんだな。
自分のことがさらにわかった。
物が減るから
スッキリなんじゃない
自分のことがわかって
スッキリなんだ。
それは
すごく嬉しかった。
結局、
段ボール箱ひとつぎっしり入っていた資料は
厳選のあと
クリアファイル1冊に
なった。
(しかも中身は数枚だけ)
残したものは、
私が今取り組んでる
我が子の自主保育活動でも使えそうな
外遊び体験についての資料
(しかも大尊敬する方の書かれた記事)と
大好きだったゼミの
メンバー紹介が面白くまとめられた
写真入りの資料
頑張っていた過去の私を発見し、
これまで多くの人に出会ってきていたこと
その方々から多くのあたたかさを
いただいていたこと
それらに
感謝できたお片付け。
ひとりではちょっと
越えきれなかったであろう
最初の一歩を
ショーコちゃんという存在が
傍でずっと励ましてくれてて
本当ぉに心強かった。
zoomでお片付けってどんな感じだろう?と
あまり想像つかずにいたけれど、
ショーコちゃんが
まるで南くんの恋人みたいだった🤣🤣🤣
(古い?w)
むしろ私には
このあと片付けの続きをするにあたって
胸ポケットにはいつでも
ショーコちゃんがいるような感覚で
作業できそうで
ワクワクしてる。
ショーコちゃんは
ホットケーキのみならず
やはり愛の化身でいらっしゃいました。
本当に
この私が、
片付けられない女を
終わらせられる気がしてきたよ!
ありがとう!!!