大学四年間。自衛隊、プロに変更させて頂いてからもお世話になった川島先生が今月5日0時45分に亡くなりました。
75歳でした。
今年、二月二十七日に後輩の平田、別府と一緒にお見舞いに行ったのが最後となってしまいました。
今から思うと本当にあの時に会いに行け良かったと思います。
また来ますと言った事が心残りです。
一緒に行った後輩の二人には感謝しております。
身体はお疲れになっているよう見えましたが眼光は鋭くいつもの川島先生でありました。
私が川島先生と初めてお会いしたのは高校の選抜大会でした。
優勝した時に賞状を頂いた事を覚えています。
「また頑張りなさい」と言って頂きました。
兄が日本大学でした、私も一番強い所に行きたいと日本大学に進学致しました。
大学と練習の両立は大変で先輩との上下関係も厳しとの事、覚悟をして入りました。
練習一日目から本当に大変でこれから四年間もつのかと気が重くなったのを思い出します。
しかし食事をしぐっすり寝たら元気になり、大丈夫やっていけるんだなと思いました。
そしてこれから四年間頑張ろうと心に決めました。
最近のように思い出されます。
合宿所生活最初は辛く大変でした、でもだから少しの事でも皆と喜びあえた気がします。
なので学生時代は大変高価な「もの」を沢山手に入れた気がします。
厳しい上下関係だからこそ自分の為になると思いますし私は先輩方に可愛がって頂けたので良い毎日でした。
やはり毎日毎日が勉強でしたが。
高校生の時はしていなかった掃除や洗濯、料理と全て自分。
そして当時は冷暖房が無かったので慣れるまでは時間がかかりました。
今となれば良い思い出です。
経験出来幸せに思います。
合宿所はどんな流れと思いますので、一日の時間割を大体で紹介致します。
朝6時半の起床の放送で起きます。
体操を合同し一時間のランニング。
各コースがあり自由の時も有れば今日は公園、今日は東京タワーまでとかという流れもあります。
それが終わり8時の朝食を食べてから学校の一限に間に合うよう合宿所を出ます。
自由に授業は決められますが私は練習には始めから出たかったので間に合うように授業は組みました。
なので練習に間に合うように授業を入れ、四限が終わると急いで帰り、部屋の掃除をしてから練習。
5時半には練習が始まり、8時前には練習が終わりますのでそれから食事を済ませ自由時間となります。
門限までの一時間半から二時間、この自由な時間は貴重な時間でした。
そして門限の10時10分前には部屋に入り、10時半に消灯になります。
電気が消えると疲れからかすぐに眠くなりました。
こんな流れの一日でした。
合宿所に居る時は部屋か食堂にいました。
部屋は布団を置くスペースと少しでしたので狭く感じます。
でもすぐに慣れました、今では一人だと寂しいと思います。
食堂にはテレビがありますので皆集まります、皆で見るテレビは面白く盛り上がりました。
外のどこに行っても皆門限がありますので、間に合うように帰ります。
一年生はまた掃除がありますので少し早めに帰ります。
特に一年生はする事が多い毎日でした。
でもこのような生活なので色々な面で強くなると思いますし、学びました。
私の宝物だと思います。
やはり特に練習が大変で毎回必死でした。
先輩について行けるよう、追い付けるよう一生懸命に頑張りました。
そんな自分を見て監督さんは他の一年生より自分の事を気に掛けて頂いたように思います。
私が悩んでいると川島先生は全て理解されていて、こうやって打つんだよと教えて頂きました。
個人で教えて頂ける機会はなかなかない事なので光栄な事でした。
川島先生の教えは終わるとクタクタになりました、でも強くなったと確信出来ましたので素晴らしい時間でした。
私の出身は千葉県ですので、私を呼ばれる時川島先生は「おい、千葉」と呼ばれていました。
川島先生が覚えられるまで県名で呼ばれるんです。
覚えられたか気に留めて頂くかは分かりませんが、早く覚えて頂こうと頑張って練習致しました。
そんな事があり私は一番に名前を呼んで貰え、試合でも一年生からあまり出られないリーグ戦も出して頂きました。
全日本の合宿にも、韓国合宿にも一年生ながら呼んで頂きました。
先輩達が居る中、一年生の自分が出れる、本当に幸せな事でしたし頑張ろうと思い練習致しました。
大学にはリーグ戦という試合があり、自分の大学は連覇をしていました。
しかし一年生はなかなかリーグ戦には出れません。
何故一年生を出さないかというと、高校と大学のレベルがあまりにも違うので選手の為によくないと監督さんは考えられたのだと思います。
その中で、私は試合に出して頂けました。
佐藤なら大丈夫。と考えられたのだと思います。
これを機にますます頑張ろうと思いました。
しかし一度だけ外された事が有ります。
私は勝てるのに何故と思いました。
後で話を聞くと、リーグ戦は皆で戦うもの。皆で勝てばいいんだと。
今はまだ勝てるか分からない、ここで怪我をしたらという考えだったのだと思います。
全日本までには確実に勝てるだろう、それまで頑張りなさいとの事だと思います。
監督さんの考えどうり自分は全日本で勝つ事が出来ました。
川島先生は自分達を第一に考え守って下さります。
だから皆一つになり全力で闘えるのだと思います。
自分の大学はプロには行きません。
それは自分の教え子が心配だからだと思います、大学を卒業し安定した職業に就して欲しいという事だと思います。
私は自衛隊に就職しました。でもやはりもう一度ボクシングをしてみたいと思い、川島先生に報告に行きました。
やはり公務員でしたので安定していました。
しかし、もう一度挑戦してみたかったんです。
川島先生にお会い致しますので覚悟して伺いました。
川島先生は「何」、と言われそうな顔で自分を見て激怒されました。
しかし自分が話をしているとそうか、頑張りなさいと言って下さいました。
監督さんは今でも自分を教え子とし、プロに変更してからもどうだ?大丈夫かと気に留めて下さいました。
何か集まる時が有れば皆様にも紹介して頂きましたし、本当に本当に感謝しております。
先週の土曜日、日曜日と川島先生のお葬式がありました。
私は用事で出席出来ませんでしたが、密葬との事でした。
密葬との事ですが沢山の方々が駆け付けたとの事です。
駆け付けられずにはいられなかったのだと思います。
沢山の方々、そして教え子としても色々な垣根を越え来ていたらしく、出席した兄も喜んでおりました。
それを聞き自分は監督さんの教え子で良かったと強く感じ監督さんという人間を再認識致しました。
入院されている時も私に「ボクシングを頑張りなさい」と言って頂けました。
そんな時までも私を考えて頂き自分は幸せに思いました。
しかし今でも心配をかけていると思い、僭越ながら親不孝者だとも思います。
早く結果を残し川島先生の所に挨拶に行きたいと思います。
そして川島先生に言わなければならない事があります。
自分が学生時代に川島先生宛てに大分から届いた「高級デコポン」。
とても大きく美味しそうで宝石みたいに輝いておりました。
川島先生にはよく贈り物が届きます。
食べきれないと学生に食べなさいと頂けるんです。
よく川島先生には頂いていました。
そしてこのデコポンも食べていいと噂が流れたのです。
食べてみるとその美味しさといったら驚きで、やはり川島先生に送られて来る物は違うなと。
皮が薄くほぼ身で種はありませんでした。
これは早く無くなると思いかなりのデコポンを確保致しました。
そしてその夜。
川島先生が一口も食べていないデコポンが姿を消したと問題になったんです。
誰が食べたんだ、犯人捜しが始まります。
皆怖いので手を挙げる人はいなく犯人は見つかりません。
自分が一番デコポンを隠し持っていたので冷や汗が出ました。
後輩には平田が居ましたので平田に手を挙げろと、平田も平田で先輩がと。
結局皆が公平に食べたという事で話はコーチに収めて頂きました。
川島先生の物を勝手に食べてしまった事はこれが最初で最後です。
すみません。
そして川島先生すみませんでした、自分が主犯です。
どうもすみませんでした。
川島先生の思いは沢山で文書では書く事は難しく思います、でも自分は川島先生に少しずつでも恩を返せたらと思っております。
川島先生がよくご指導された飯田先輩が今年七月に結婚されます。
深石先輩は子供が出来ました。
平田は二人目がお腹に居るとの事です。
菊地は仕事を一生懸命頑張っています。
辻本先輩は教師を頑張っています。
高橋先輩はクレープ屋さんを銀座に出しました。
河野先生は修行でイタリアへ行き今は美味しいパスタ屋を経営されております。
なにより梅下監督がボクシング部を引っ張りそして学生にはより厳しく、そしてとても暖かく指導されています。
今年のリーグ戦は間違いなく優勝すると思います。
ですので川島先生安心して下さい。
今回自分は川島先生のお葬式に出席できなかった事をとても残念に思います。
川島先生が亡くなった事は生きて来た中で一番悲しく辛い出来事です。
人目をを憚らず涙が止まりませんでした、こんなに悲しいと思った事はありません。
皆行けなくとも同じ気持ちだと思います。
川島先生今まで本当に有り難うございました。
川島先生の気持ちは教え子に受け継がれていると思います。
安心して休まれて下さい。
本当に本当に有り難うございました。
失礼致します。
日本大学保健体育審議会ボクシング部
元主将
帝拳プロモーション
東洋太平洋ミドル級チャンピオン
佐藤幸治
本当にいままで有り難うございました
75歳でした。
今年、二月二十七日に後輩の平田、別府と一緒にお見舞いに行ったのが最後となってしまいました。
今から思うと本当にあの時に会いに行け良かったと思います。
また来ますと言った事が心残りです。
一緒に行った後輩の二人には感謝しております。
身体はお疲れになっているよう見えましたが眼光は鋭くいつもの川島先生でありました。
私が川島先生と初めてお会いしたのは高校の選抜大会でした。
優勝した時に賞状を頂いた事を覚えています。
「また頑張りなさい」と言って頂きました。
兄が日本大学でした、私も一番強い所に行きたいと日本大学に進学致しました。
大学と練習の両立は大変で先輩との上下関係も厳しとの事、覚悟をして入りました。
練習一日目から本当に大変でこれから四年間もつのかと気が重くなったのを思い出します。
しかし食事をしぐっすり寝たら元気になり、大丈夫やっていけるんだなと思いました。
そしてこれから四年間頑張ろうと心に決めました。
最近のように思い出されます。
合宿所生活最初は辛く大変でした、でもだから少しの事でも皆と喜びあえた気がします。
なので学生時代は大変高価な「もの」を沢山手に入れた気がします。
厳しい上下関係だからこそ自分の為になると思いますし私は先輩方に可愛がって頂けたので良い毎日でした。
やはり毎日毎日が勉強でしたが。
高校生の時はしていなかった掃除や洗濯、料理と全て自分。
そして当時は冷暖房が無かったので慣れるまでは時間がかかりました。
今となれば良い思い出です。
経験出来幸せに思います。
合宿所はどんな流れと思いますので、一日の時間割を大体で紹介致します。
朝6時半の起床の放送で起きます。
体操を合同し一時間のランニング。
各コースがあり自由の時も有れば今日は公園、今日は東京タワーまでとかという流れもあります。
それが終わり8時の朝食を食べてから学校の一限に間に合うよう合宿所を出ます。
自由に授業は決められますが私は練習には始めから出たかったので間に合うように授業は組みました。
なので練習に間に合うように授業を入れ、四限が終わると急いで帰り、部屋の掃除をしてから練習。
5時半には練習が始まり、8時前には練習が終わりますのでそれから食事を済ませ自由時間となります。
門限までの一時間半から二時間、この自由な時間は貴重な時間でした。
そして門限の10時10分前には部屋に入り、10時半に消灯になります。
電気が消えると疲れからかすぐに眠くなりました。
こんな流れの一日でした。
合宿所に居る時は部屋か食堂にいました。
部屋は布団を置くスペースと少しでしたので狭く感じます。
でもすぐに慣れました、今では一人だと寂しいと思います。
食堂にはテレビがありますので皆集まります、皆で見るテレビは面白く盛り上がりました。
外のどこに行っても皆門限がありますので、間に合うように帰ります。
一年生はまた掃除がありますので少し早めに帰ります。
特に一年生はする事が多い毎日でした。
でもこのような生活なので色々な面で強くなると思いますし、学びました。
私の宝物だと思います。
やはり特に練習が大変で毎回必死でした。
先輩について行けるよう、追い付けるよう一生懸命に頑張りました。
そんな自分を見て監督さんは他の一年生より自分の事を気に掛けて頂いたように思います。
私が悩んでいると川島先生は全て理解されていて、こうやって打つんだよと教えて頂きました。
個人で教えて頂ける機会はなかなかない事なので光栄な事でした。
川島先生の教えは終わるとクタクタになりました、でも強くなったと確信出来ましたので素晴らしい時間でした。
私の出身は千葉県ですので、私を呼ばれる時川島先生は「おい、千葉」と呼ばれていました。
川島先生が覚えられるまで県名で呼ばれるんです。
覚えられたか気に留めて頂くかは分かりませんが、早く覚えて頂こうと頑張って練習致しました。
そんな事があり私は一番に名前を呼んで貰え、試合でも一年生からあまり出られないリーグ戦も出して頂きました。
全日本の合宿にも、韓国合宿にも一年生ながら呼んで頂きました。
先輩達が居る中、一年生の自分が出れる、本当に幸せな事でしたし頑張ろうと思い練習致しました。
大学にはリーグ戦という試合があり、自分の大学は連覇をしていました。
しかし一年生はなかなかリーグ戦には出れません。
何故一年生を出さないかというと、高校と大学のレベルがあまりにも違うので選手の為によくないと監督さんは考えられたのだと思います。
その中で、私は試合に出して頂けました。
佐藤なら大丈夫。と考えられたのだと思います。
これを機にますます頑張ろうと思いました。
しかし一度だけ外された事が有ります。
私は勝てるのに何故と思いました。
後で話を聞くと、リーグ戦は皆で戦うもの。皆で勝てばいいんだと。
今はまだ勝てるか分からない、ここで怪我をしたらという考えだったのだと思います。
全日本までには確実に勝てるだろう、それまで頑張りなさいとの事だと思います。
監督さんの考えどうり自分は全日本で勝つ事が出来ました。
川島先生は自分達を第一に考え守って下さります。
だから皆一つになり全力で闘えるのだと思います。
自分の大学はプロには行きません。
それは自分の教え子が心配だからだと思います、大学を卒業し安定した職業に就して欲しいという事だと思います。
私は自衛隊に就職しました。でもやはりもう一度ボクシングをしてみたいと思い、川島先生に報告に行きました。
やはり公務員でしたので安定していました。
しかし、もう一度挑戦してみたかったんです。
川島先生にお会い致しますので覚悟して伺いました。
川島先生は「何」、と言われそうな顔で自分を見て激怒されました。
しかし自分が話をしているとそうか、頑張りなさいと言って下さいました。
監督さんは今でも自分を教え子とし、プロに変更してからもどうだ?大丈夫かと気に留めて下さいました。
何か集まる時が有れば皆様にも紹介して頂きましたし、本当に本当に感謝しております。
先週の土曜日、日曜日と川島先生のお葬式がありました。
私は用事で出席出来ませんでしたが、密葬との事でした。
密葬との事ですが沢山の方々が駆け付けたとの事です。
駆け付けられずにはいられなかったのだと思います。
沢山の方々、そして教え子としても色々な垣根を越え来ていたらしく、出席した兄も喜んでおりました。
それを聞き自分は監督さんの教え子で良かったと強く感じ監督さんという人間を再認識致しました。
入院されている時も私に「ボクシングを頑張りなさい」と言って頂けました。
そんな時までも私を考えて頂き自分は幸せに思いました。
しかし今でも心配をかけていると思い、僭越ながら親不孝者だとも思います。
早く結果を残し川島先生の所に挨拶に行きたいと思います。
そして川島先生に言わなければならない事があります。
自分が学生時代に川島先生宛てに大分から届いた「高級デコポン」。
とても大きく美味しそうで宝石みたいに輝いておりました。
川島先生にはよく贈り物が届きます。
食べきれないと学生に食べなさいと頂けるんです。
よく川島先生には頂いていました。
そしてこのデコポンも食べていいと噂が流れたのです。
食べてみるとその美味しさといったら驚きで、やはり川島先生に送られて来る物は違うなと。
皮が薄くほぼ身で種はありませんでした。
これは早く無くなると思いかなりのデコポンを確保致しました。
そしてその夜。
川島先生が一口も食べていないデコポンが姿を消したと問題になったんです。
誰が食べたんだ、犯人捜しが始まります。
皆怖いので手を挙げる人はいなく犯人は見つかりません。
自分が一番デコポンを隠し持っていたので冷や汗が出ました。
後輩には平田が居ましたので平田に手を挙げろと、平田も平田で先輩がと。
結局皆が公平に食べたという事で話はコーチに収めて頂きました。
川島先生の物を勝手に食べてしまった事はこれが最初で最後です。
すみません。
そして川島先生すみませんでした、自分が主犯です。
どうもすみませんでした。
川島先生の思いは沢山で文書では書く事は難しく思います、でも自分は川島先生に少しずつでも恩を返せたらと思っております。
川島先生がよくご指導された飯田先輩が今年七月に結婚されます。
深石先輩は子供が出来ました。
平田は二人目がお腹に居るとの事です。
菊地は仕事を一生懸命頑張っています。
辻本先輩は教師を頑張っています。
高橋先輩はクレープ屋さんを銀座に出しました。
河野先生は修行でイタリアへ行き今は美味しいパスタ屋を経営されております。
なにより梅下監督がボクシング部を引っ張りそして学生にはより厳しく、そしてとても暖かく指導されています。
今年のリーグ戦は間違いなく優勝すると思います。
ですので川島先生安心して下さい。
今回自分は川島先生のお葬式に出席できなかった事をとても残念に思います。
川島先生が亡くなった事は生きて来た中で一番悲しく辛い出来事です。
人目をを憚らず涙が止まりませんでした、こんなに悲しいと思った事はありません。
皆行けなくとも同じ気持ちだと思います。
川島先生今まで本当に有り難うございました。
川島先生の気持ちは教え子に受け継がれていると思います。
安心して休まれて下さい。
本当に本当に有り難うございました。
失礼致します。
日本大学保健体育審議会ボクシング部
元主将
帝拳プロモーション
東洋太平洋ミドル級チャンピオン
佐藤幸治
本当にいままで有り難うございました