【色平哲郎氏からのご紹介】
国は大きくても、好戦的であれば必ず滅亡する。
天下は安定していても、戦争を忘れると必ず危険が生ずる。

司馬穰苴(じょうしょ)
(*長文でmixiから分割を指示されたので、アメバに掲載させていただきます)
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戦争は一人、せいぜい少数の人間がボタン一つ押すことで一瞬にして起せる。
平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できない。
このことにこそ、平和の道徳的優越性がある。

丸山眞男

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中国(大陸)は今、台湾の独立派に対する威嚇をするために軍事演習を活発化させているだけで、武力攻撃をする気などない。なぜなら、戦争になどなったら、逆に中国国内における社会不安を招き、一党支配体制が危うくなるからだ。また国際社会からも強烈な非難を受けるのを知っているので、そういう選択はしない。  

もっとも、台湾政府が独立を宣言した場合は別だ。国際関係など考慮しておられず、2005年に制定した「反国家分裂法」が火を噴くだろう。  しかし台湾も、政府として独立を宣言することは避けており、バイデン政権も「台湾の独立は支持しない」と中国側との対話で明言しているので、結局は習近平の思惑通り「2035」まで待つことになるだろう。2035年には「満を持して」という戦略が実現しているにちがいない。  

日本が警戒すべきはむしろこの長期戦略なのに、そのようなことに全く気付かない岸田内閣は、習近平がこの上なく喜ぶ方向にしか動いていない。

https://bit.ly/3pPN0A7


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日米開戦後に日本の生産力はアメリカ合衆国に遠く及ばない現実を知りそれを各方面へ報告したことから、勅任官であるが二等兵として召集されて1944年(昭和19年)に南方戦線へ送られた。マニラでは南方軍総司令官寺内寿一元帥の配慮により、軍政顧問として勤務して無事に復員し、のちに技術院参技官として終戦を迎える、、、
中道保守系の有力議員として社公民路線を提唱した。
設立した電波科学専門学校が戦後に旧制大学東海大学となり、学制改革に伴い新制大学東海大学となる。自らは一官僚であり、資産を持たない松前は借入金や寄付だけで大学建設に挑んだため、大学はたびたび財政危機に陥り、松前も苦労が絶えなかった。しかし、事業家としての才にも恵まれた松前は斬新な学部の設置や、学校法人のM&Aなど従来にはない学園経営を展開し、東海大学を日本有数の大学に育て上げた、、、

一方で、日本を戦争に導いたのは陸軍ではなく、東大法科卒の官僚たちだと考えていたことから、1985年まで法学部を設置しなかった。

https://bit.ly/3FRQMyJ


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ベートーヴェンが十八歳になった一七八九年の夏に、フランス革命の報がボンに入ります。当時の選帝候が、あのヨーゼフ二世の弟であったこともあり、ボンの知識人はこれを好意的に受けとめ、ボン大学で革命讃美の論陣を張っていたシュナイダー教授は、学生達から熱烈に支持されていました。ベートーヴェンもまさにその渦中にいたのです。

ベートーヴェンがその頃知ったシラーの詩「歓喜によせて」に曲をつけようとしたことはよく知られていますが、それを彼は三十余年後に『第九』の中で実現しています。そのことは彼が、革命が掲げた「自由・平等・友愛」の理想に生涯忠実であったことを物語っています。

一方ゲーテの受けとめ方はどうかと言いますと、ベートーヴェンとはまったくちがっています。古くからの自由都市フランクフルトに生れ育ち、二十代からワイマル公国の国政に参加し、政治家・行政官として要職を歴任してきた四十歳のゲーテは、内政だけでなく諸外国の情勢にも通じていました。数年前からフランスで高まっていたルイ十六世の失政に対する不満やマリー・アントワネットをめぐるスキャンダルなどに、何か起らなければいいが、と「暗い予感」を抱いていたのでした。

https://bit.ly/3eOQmwV


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無知学における代表的な例として、喫煙の発癌性、その他の健康への悪影響の研究に対し、疑念や混乱を起こさせる為のたばこ業界の広告キャンペーンを挙げている、、、

「インターネットは(利益団体にとって都合の良い)無知を広めるのを助けている、…インターネットはインターネットユーザーを無知を故意に広めたい強力な(メーカーや政治の)利益団体の餌食としている。」、、、

「(西洋の視点から)探検調査のされていない世界の領域を地図に(西洋人以外は昔から住んでいたりよく知られていたにも関わらず)未知・未調査の領域として表すのは... unknowledgeの製作 (故意に社会的な無知を作り出す事)であり、それらの領域を西洋の政治的および経済的な潜在的な関心の対象に変え、(未知の領域という理由で)植民地主義(の対象とする事)を可能にすることです。」、、、

別の例としては気候変動の影響を矮小化するために石油会社が科学者に金銭を出し幾つもの研究を行った気候変動否定論がある、、、

例えば、プレートテクトニクスに関する知見は研究の一部が潜水艦による戦争に関する軍事機密であり検閲されたため少なくとも10年は公に知られるのが遅れた。


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こうして1840年からアヘン戦争がはじまった、、、

K・マルクスは、東インド会社の設立は1702年であったと書いているが、これはマルクスにとって、民主的株主総会をはじめてつくった新東インド会社(1702年設立)が合同東インド会社のルーツであり、したがって19世紀まで残る東インド会社のはじまりであると考えたからだと思われる、、、

教科書などにいう1600年イギリス東インド会社発足というのは無意味なのであろうか。
私はしかし、オランダ東インド会社などに対抗して、イギリス東インド会社はすでに17世紀から貿易を開始しており、(インド木綿)キャラコ熱なども1670年代、
80年代の輸入増のなかで展開されたのだから、決して無視できないと考えている。
17世紀の経験があったから、18世紀に近代的な会社組織をつくることができたに違いない、、、

インド学の権威であった岩本裕教授は、その著「インド史」の中に、、、
「このころ(18世紀後半)のイギリス東インド会社営業部門社員」たちが、インド現地で
営んだ「商業」というのは、じつは「恐喝」であり「掠奪」であった、とも述べている、、、
東インド会社は、それまで本国から銀を持ち出してインド産木綿織物や中国の茶を買い入れるという貿易パターンを、どうしても変えることができなかったが、ディーワーニー(徴税・財政担当大臣の権限)の獲得によって銀持ち出しの必要がなくなったために、貿易収支という問題を一挙に解決することになった。

ところが、そのことはつまり、東インド会社をそれまでのような単なる貿易会社、商事会社
にとどめてはおかないことを意味していた。商事会社とは称し続けていはいたけれども、実質的に植民地支配をもあえて行なう一種の総合商社あるいはそれ以上のものに変化したのであった。
岩本教授の言葉を借りれば、「営業」ではなく、「恐喝」と「掠奪」がこれからいよいよ本格的にはじまったのである、、、

1813年のインド貿易独占廃止法は、正確にいうと、インドだけではなく「中国皇帝の支配領域を除く」東インド会社のあらゆる貿易地や港と、貿易したり取引したり投機したりする権利を全ての国民に公開する、と規定している。
つまり、東インド会社が貿易独占権を主張する領域は、中国だけとなったわけである、、、

1833年以降の東インド会社の重要な収入源は、インド農民に前貸金を与えてアヘンの栽培に従事させ、これを買い占めて中国の広東に売り出すことであった。その収入は東インド会社の収入全体の12%にも達していた。そのうえ自由貿易商人のアヘン販売が加わったわけであるから、いよいよ中国へのアヘン流入は増加するばかりであった。インドで1箱200ドルのアヘンが広東では800ドルで取引されていたから、禁令を無視してのアヘンの流入は止まることを知らなかった。
こうして1840年からアヘン戦争がはじまった、、、

ジャーディン・マセソン社というのは、中国名を怡和(イワ)洋行といい、、、もともとはスコットランド出身のW・ジャーディンとJ・マセソンとが、1832年にマカオに設立した会社であった。
はじめからインド産アヘンや茶貿易に従事していたが、1832年といえばまだ東インド会社
の中国貿易独占権が廃止される以前であったから、もぐり商人として出発したわけだ。
しかしわずか1年のちの1833年8月に中国貿易も全英国民に開放されたから、事実上東インド会社の商業活動を継承したものとみることができる。

「東インド会社」巨大商業資本の盛衰 浅田實


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「反ホッブズ」人類学

現代においてーーおそらく近代といってもいいのかもしれないが、わたしたちの想像力をもっとも根深く制約し、想像力の活発で奔放な運動を囲い込んでいるイデオロギーとはなんだろうか?

そのひとつが「国家の必然性」であることはまちがいない。たとえ必要悪であるとしても国家は人間にとって必要不可欠なものであるといった発想は、わたしたちの思考の作用のすみずみに深く浸透している。そして、そのような制約の必要を根拠づけているのが、ある論理、つまり「ホッブズ的論理」である。ひとは自然のままに放置しておけば、たがいに傷つけ、盗み、殺戮しあうであろう。
そんなおそるべきカオスを避けるためにはただひとつの選択肢しかない。つまり、そうした人々の上に立って、実力を専有することで人々に強制力を発揮できる権威的存在、すなわち国家である、と。そして、その論理にはスペクトラムがある。
ホッブズ自身のように体系立てられた思想体系から、「国家がなければ暴力が渦巻いて大変なことになるぞ」といった漠然とした常識レベルのものまで。この論理は、そのような常識の土台をもっているから、なお厄介なのである。

ところで、そのとことん根深い「ホッブズ的論理」を、もっとも果敢に覆し、思いもよらぬ世界を開示してくれる知的冒険という点で、注目すべき翻訳書が矢継ぎ早に公刊された。
ピエール・クラストル「政治人類学研究」(原毅彦訳、水声社)、ジェームズ・C・スコット「反穀物の人類史ーー国家誕生のディープヒストリー」(並木勝訳、みすず書房)、
デヴィッド・グレーバー「民主主義の非西欧起源について」(片岡大右訳、以文社)
の3冊である、、、

この3つの著作は、対象こそ異なっているが、そのテーマとパースベクティヴにおいて
共鳴しあっている。それも当然というべきか。
かれらは、人類学、あるいは人類学をひとつの領域としながら、かつ「アナキズム」になんらかのかたちでコミットしている点を共有している。

そもそも人類学は必然的にアナキズムと親和性を有していると指摘するのはグレーバーである。(デヴィッド・グレーバー「民主主義の非西欧起源について」)
というのも「人類学者たちはつまるところ、現存する国家なき社会についての知識を有している唯一の学者集団」であって、「その多くが、国家が機能停止するか、あるいは少なくとも一時的に撤退し、人々が自分たちのことがらを自立的に管理している地域に、実際に住んだ経験をもっている。少なくともかれらは、国家の非在において起こることについてのもっとも平凡な想定(「人々は殺し合う」)が真実でないことを十分に知っている」。

つまりかれらは、みずからの対象が、いわゆるアナーキーな社会であること、
そしてその機能の実態に接することによって、「ホッブズ的論理」が実際に虚偽である
ことを認識できる位置にあるということになる、、、

ここであらためて、問うてみよう。
なぜいま、かれらの「反ホッブズ的」知的営為の重要性が高まっているのだろうか。ひとつの理由として、社会、経済、政治を貫徹した既存の諸制度の全般的機能不全をあげることができるだろう。
そんな危機意識のなかで人類の集団的可能性の広大な領域を知ることの必要性が感じられているのである。さらに、それが人類学においては、さまざまの民衆の実践のうちに胚胎しているのがみいだされるといったこともあげられる。
「エリート」の思考や実践には、もはや未来がないとも感じられているのである。


ピエール・クラストルと「未開人」、、、

クラストルの知的作業が、人文社会科学全域にもたらしたインパクトは強力なものであった。
(ピエール・クラストル「政治人類学研究」)
未熟なゆえに国家を欠いているどころか、未開社会は国家の出現を積極的に阻止しようと
していること、政治が不在であるどころか、あらゆるヒエラルキーの永続化を拒否するために
めぐらされた複雑な論理と制度によってたえず政治を行使していること。
クラストルによって、未開社会は「国家なき社会」から「国家に抗する社会」へと変貌を遂げたのである。

それによって未開社会像が変容をせまられただけではない。
クラストルによる「コペルニクス的転回」は、人類学とその対象である未開社会の領域を超えて、
国家や権力、そして政治にかんするそれまでの観念に大幅な変更を強いるものでもあった。
実際、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、クラストルの仕事から多大なる影響を受け、
彼らの社会認識の中核部分に「国家に抗する社会」の力学をおいた。
かれらなりのクラストルの継承を集約する理論装置が、有名な「戦争機械」という概念である。
また、もうひとつ、これは日本語圏ではあまり知られていないように思うが、
クロード・ルフォールやマルセル・ゴーシェ、ミゲル・アバンスールら、「社会主義か野蛮か」
の流れをくむ「反全体主義」の政治哲学・宗教社会学の潮流にも強力な影響を及ぼした。

クラストルは、一見、ヒエラルキーによって構成されているようにみえる諸制度が、逆に、その
ようなヒエラルキーの出現を阻止するべく機能している「未開」の力学を、熱を込めて記述した。
「国家に抗する社会」とは異なる、本書に固有の理論的核心があるとしたら、それは、国家を
祓い除けるために未開社会が作動させている装置としての「戦争」である。

その意味での本書の中心テキストは「暴力の考古学」である。
それによれば、未開社会は戦争社会である。
未開社会は好戦的であり、慢性的な戦争状態にある。
ここだけみるならば、ホッブズの前提と変わるところがない。
ホッブズによれば、自然状態とは戦争状態にほかならず、そのヴィジョンは、
当時の未開社会にかんする報告からえられていたのであるから。
ところが、そこに込められた含意は、真逆である。
ホッブズにあっては、戦争状態はカオスにほかならず、そのカオスを克服するために、
ひとは超越的権力、つまり国家を必要とする。
戦争は、国家の求心性によって乗り越えるべきものなのである。
他方、クラストルの報告するインディアン社会にあって戦争とは、むしろ国家を寄せつけない
ために必要なものである。
戦争はつねに社会に分裂を導入し、それによって超越的権力への糾合を阻止するものである。
そしてそれによって、多元性を維持している。
その意味で、クラストルの戦争状態はカオスでも自然状態ではない。
それは国家を祓い除けるために、さまざまなコードによって統御される人工状態なのである、、、


ジェームズ・C・スコットと「野蛮人」、、、

なんらかの時点、なんらかの理由で、人々は「自発的」に「隷従」し、それによって国家が出現
したとすれば、やはり「国家に抗する社会」から「国家のある社会」への転換は必然だ
ということにならないか。

スコットは、クラストルの議論の核心部分は引き継ぎつつも、みずからのフィールドである
東南アジアの調査を介し、この「断絶」にいささか異なる仕方で接近した。
クラストルの経験したインディアンはおろか、初期の植民者の観察したかれらも、
すでに国家を知っていた。
つまり、かれらは基本的に帝国(インカ)と共存していたのであり、帝国の周辺に位置していた。
しかるに、その未開人の多くは、帝国からなんらかの理由で意志して逃亡した人々ではないか。
つまり、国家に抗する社会とは、逃亡奴隷が山奥に形成したマルーン共同体に近いなにか
ではないか、、、

近年の考古学が、わたしたちの先史時代への思い込みを覆すさまざまな発見をもたらしている
ことは知られている。
しかし、そうした革新が、考古学の専門的領域を超えて、わたしたちの認識あるいは
人文社会科学全般にどのような変革をもたらすものなのかは、いまだ判然としない、、、

しかし、ここからが重要である。
「穀物コア」たる国家はきわめて脆弱な組織体だった。
すでに国家以前の「再定住キャンプ」は動物原性感染症を引き寄せ(感染症の歴史として
興味深い論点である)ていたが、国家はよりひんぱんなる疫病の温床となった。
さらに富の集積する国家は「野蛮人」による収奪の格好の的であった。
マンパワーの囲い込みは国家の基礎だが、その集合性は不利にもはたらく。
国家以前の「再定住キャンプ」の住人たちが、農耕に特化することなく狩猟採集をも持続しながら
多様な食料源を確保し、遊動と移動とを併用することで気候・環境の変動に柔軟に対応していた
のに対し、国家は、そのような融通性に欠けるという欠点をもっていた。
こうして初期国家はきわめて短命であり、実際かんたんに解体する。
のちの歴史家が「暗黒時代」と呼ぶ、あらゆる文字情報や遺跡が突如として消え、
その状態が一定期間持続するといった出来事は、こうした事情に由来する。

さらにスコットはこう推測する。
「暗黒時代」とは、多数の人間にとっては「幸福、福利、平等」の促進された時代でも
あったかもしれない、と。
もちろん、それを理想状態と観念することはできない。
しかし、国家の消えた「暗黒時代」は、ホッブズ的カオスどころか、多数の人類の暮らし
にとってはるかにマシであった可能性は高いのである。

本書の圧巻は「野蛮人の黄金時代」と題された最終章である。
(ジェームズ・C・スコット「反穀物の人類史ーー国家誕生のディープヒストリー」)
スコットによれば、野蛮人の黄金時代とは、この初期国家の時代から17世紀にいたるまでをいう。
つまり、17世紀の「国民国家」の勃興の時代まで、世界は国家の民で埋め尽くされていたわけでは
なかった。
それどころか、つい最近まで、国家への統合をあの手この手で拒む「野蛮」
と名指しされた人々が、世界には跳梁跋扈していたのである。

「この本のキーポイントは、国家というものは、いったん確立されてからは、
臣民を取り込むだけでなく、吐き出していたという点にある。
逃亡の原因は途方もなく多様だ。
伝染病、凶作、洪水、土壌の塩類化、課税、戦争、徴兵など、すべてが着実な漏出の理由になるし、
ときには大量脱出のきっかけにもなる。
逃亡して近隣国家へ向かうものもいただろうが、多くは、、、辺境へと逃れて
別の生業形態を営んだだろう。
彼らは事実上、意図して野蛮人になったのだ」。

クラストルにとっての問題が「未開社会」と国家の時間的な断絶と跳躍であるとしたら、
スコットにとっての問題は「野蛮社会」と国家の地理的な断絶と跳躍であろう。


デヴィッド・グレーバーと「暴徒たち」

グレーバーの「民主主義の非西欧起源について」は、このような議論を民主主義といった
次元から発展させる可能性を拓いてくれる。

人類学者は「国家なき社会」つまり「文字なき社会」を、基本的に対象とする。
しかるに、人類学者こそ、民主主義をより曇りなく認識できる。
なぜなら

「民主主義者たちは過去200年にわたり、民衆の自己統治にかかわる諸理想を、国家という
強制的装置に継ぎ木しようと試みてきた。
しかし結局のところ、このような企てはまったくうまくいくものではない。
国家とは、その本性からして、真に民主化されることなどありえないものなのだ。
要するに、国家とは基本的に暴力を組織化する手段にほかならない」。

民主主義が古代アテナイに起源をもつという通念は、西洋中心主義というだけでなく、
つまるところ(文字記録を有した)国家のうちに、その種子を探しだそうとする指向性に由来する。
しかし、グレーバーも強調するが、このような西洋の文字の伝統にもとづくならば、
民主主義はつねに「暴徒たち」による支配として否定や悪罵の対象でしかなかった。
近代以降、共和制と呼ばれていた国家形態に、代表制(その選挙制度)という王政に由来する
参加形態、そして「国民(人民)主権」という理念の矛盾ぶくみの混合形態が、
民主主義と呼ばれるようになった。
しかし、それは世界的にーー日本もふくむーー実践のうちに実現されていた民主主義
ーー主要には、ヒエラルキーを最小化する対話と複雑な仕組みによってコンセンサスの形成を目標とするーー
とは、大きく異なっている。

こうした視点が、グレーバーにとっては、フィールドワークでえられた民衆の合意形成と、
オルタグローバリゼーション運動で普及していたアナキズム的合意形成との
往復から獲得されたものであることを認識することは大切である。
さらに、オルタグローバリゼーション運動のそのような指向性を触発したひとつの駆動力が、
1994年のチアパスでの蜂起以来のサパティスタによるあたらしい政治の模索だったこと
も重要である。
すなわち、国家というフレームの外で(国家権力を奪取することなく)水平な関係性の構築と
合意形成によっていかにみずからを統治するのかという模索である。
日本語圏では、この点の理解がむずかしくなっている(政治といえば既存の議会政治か
さもなくばアイデンティティ政治の二択になる傾向)ように思われるので、強調しておきたい。

「サパティスタが目指してきたことは、まさに多くの『アイデンティティ』をめぐる修辞法が
無視してきたことーーつまり人々やコミュニティが、自分たちがどのような人々やコミュニティ
になりたいか、自ら自由に決定することができるような世界を創るには、どのような
組織形態が、どのような審議が過程の形式が必要とされるか、ということである」。

グレーバーは、民主主義が「あいだの空間」から生まれてくることを強調する。
スコットがくり返し強調するように、国家は人間を囲い込むところに生まれ、その最初期から
人口管理を関心の最優先事項におく機構である。
初期国家を特徴づける壁の存在も、野蛮人の襲撃に備える以上に、住民の逃亡防止のために機能していた。
生業形態の制約された逃亡不能な排他的空間でこそ、暴力を背景にした支配ー服従関係は可能になる。
それに対し民主主義は、多様な人間が遭遇する機会にあって、多様な人間の合意を確保するために
不可欠の即興的技法として発達する。
だからこそ、大西洋という「あいだの空間」にあって、まさに「諸民族のるつぼ」
であった海賊船で、水平の意志決定過程は不可欠だったのである。
暴力による強制が存在しないからこそ、他者の境遇や感情、価値に配慮をおこたることなく、
ときに意に沿わぬことをも納得させるための、長い交渉の時間を必要とするのだから。

この議論をスコットの「野蛮人の黄金時代」とあわせて読むなら、いろいろと想像もふくらんで
こないだろうか。
そもそも、文字資料の残された文明は国家の存在を前提とするものであった。
グレーバーもいうように、だからこそ古代ギリシアにせよ古代ローマにせよ、
文字から聞こえてくる声(エリートたちの声)はつねに「民主主義」ーーすなわち「暴徒支配」ーー
を非難してきたのである。
しかし、スコットの推測するように、「暗黒時代」とは、多数の人間にとっては
「幸福、福利、平等」の促進された時代でもあったかもしれないとしたらどうだろう。
文字もモニュメントも不在であるという意味での「暗黒時代」においてこそ、民主主義が
いっそう生き生きと息づいていたといえないだろうか。

とするならば、わたしたちの標語は、さしずめ「来るべき時代をあらたなる『暗黒時代』へ」
という感じになるだろうか。

【「世界」20年10月号 未開と野蛮の民主主義  酒井隆史】


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内海 信彦 昨日 1:05  
ウィーンフィルハーモニーのニューイヤーコンサートは、ナチによって始められました。音楽の戦争責任を考
える上で、ウィーンフィルハーモニーがナチとの関係を、深く自己批判した勇気から学ぶは、とても重要
だと思います。昨年NHKが、ウィーンフィルハーモニーのニューイヤーコンサートの前段で、興味深い番組を放
映しました。

元々ニューイヤーコンサートは、オーストリア支配を進めながら、オーストリア民衆の抵抗に苦慮したナチに
よるプロパガンダによって始められたのです。そしてウィーンフィルハーモニーのメンバーのうち、ユダヤ系
オーストリア人音楽家は、アウシュヴィッツに送られて、殺害されたのです。
 
そしてユダヤ系のパートナーがいるメンバーは、合州国に亡命を余儀なくされ、戦後も復帰を要請したところ
、あなたのポストはもう無いと冷たい返事しかなかったというのですから、ウィーンフィルハーモニーの戦争
責任と、戦後責任は大きいですね。これは東京藝大などの恥ずべき歴史と相似しています。
 
ところが、ウィーンフィルハーモニーのコンサートホールにある博物館では、こうした恥ずべき過去を伝える
キュレーションが行われ、あったことを正確にした展示が、行われているというのです。すべての過去を「水
に流す」ことで、音楽家の戦争責任が問われなかった日本との違いに驚かされました。
2019年1月3日