【色平哲郎氏のご紹介】

「宇沢教授と一緒にコモンズ学会を作って次代の研究者を育てればよかった」宮本憲一

 

 

 

「すべての人々は知識人である。 だがすべての人々が社会において(知識人としての)機能的カテゴリーを果たすわけではない」 

Aグラムシ

 

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 「古いものは死につつあり、新しいものはまだ確かではない。 その間の空白期には多くの病的な兆候が表れる」 草稿34 B  A. Gramsci == 「知性の悲観主義、行動の楽観主義」 アントニオ・グラムシがロマン・ロランから引用   

 

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 平野 啓一郎 17時間前 「日本が好き」なら、日本人が、これだけ必死で働いてるのに貧しくなる一方だというのは、 「反日勢力」のせいではなく、長く政権を担っている自民党・公明党が無能だからだ、 という考え方にはならないんですかね。

 

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 サリン襲撃事件で知られ、個々の地方日本共産党員を支持する滝本太郎弁護士は2029年頃には「殆ど後期高齢者の政党」で消え去りそうなほどの日本共産党の衰退原因について、民主集中制だと1979年頃の40年前から言 っている。

 

2019年時点でも日本共産党の代表変更・政策変更が上意下達であり、ボトムアップでは一切行われず、突如上部からの命令となっていて党内の議論が外から見えず、国民からの信頼を得ていないからと指摘し ている。

 

「そのまま政権を握れば、日本国自体がそうなるのではないか」と著しい不安を持たせているからで あり、日本国民は日本共産党が「いつも一枚岩である」ことなぞ求めていないこと、議論ができない組織だと示してしまっていること、過去に除名された党員がいかに実績ある人でも酷く非難される状況を恐ろしさを感 じると述べている。

 

このままでは「民主集中制にこだわり、やがて後期高齢者の政党、そして消滅していくこ と」は必定と指摘している。 

 

アルチュセールのフランス共産党指導部批判 

 

 1978年3月に行われたフランスの総選挙において、フランス社会党とフランス共産党を中心とする左翼連合は、 得票率で与党を上回ったにもかかわらず敗北した。フランス共産党政治局は声明を発表し、敗北について「フ ランス共産党はいかなる責任も負っていない」と主張した。 これに対して党の知識人党員が抗議の声を挙げた。

 

アルチュセールをはじめとする6名が『ル・モンド』に共同で書簡を発表し、その中で

(1) 近く開かれる中央委員会総会の前に各地で党員集会を開き、党員の意見を中央委員会総会に反映させること、

(2) 中央委員会総会における中央の報告と参加者の発言を公表すること、(3) 党の機関紙誌に討議欄を開設すること、

(4) 次の第23回党大会は候補者選考委員会による選別を廃して代議員 選挙を完全に民主的なやり方で組織すること、を要求した。 「民主集中制」Wikiより 

 

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写真:宮本憲一、宇沢弘文(両方週刊エコノミスト 毎日新聞社)

 

 「環境破壊とパンデミックの時代における社会的使用価値論の意味」 ―宇沢理論との共通性と相違における「容器の経済学」―  宮本憲一 

(前半は発表PPTより抜粋 後半が文面 @関西学院大・原田哲史教授ゼミ 2021年10月25日) 

 

佐々木実『資本主義とたたかった男―宇沢弘文の経済学』(2019年、講談社)は世界を代表する数理経済学者から、ベトナム戦争に反対し、帰国して水俣など公害問題に直面し、社会共通資本論を提示した宇沢の経済学 者としての業績と一生を見事に描いている。

 

 宇沢によれば帰国して影響を受けたのは私の『社会資本論』と述べ、また日本のオリジナルな業績として、これと『環境経済学』をあげている。

 

 ・宇沢弘文は私の社会資本論の概念を拡張して社会的共通資本の構想を作るとともに、私の紹介したカップの Social Minimaを使って『自動車の社会的費用』を書いた。

 

これは傑作で、ノーベル賞候補であったが、 これまでの世界的数理経済学者の業績とは異なる政治経済学的な仕事であったために受賞できなかった のであろう。

 

 ・彼は1970年代後半に公害研究委員会(日本環境会議)に入り、水俣病などの公害事件から沖縄問題まで行動を共にした。彼の社会共通資本や社会的費用論による分析は市場価値から入るのでなく、使用価値(素材) から入り、GDPを使うflow分析でなくstock分析をするという方法論を取ったが、これは都留重人や私の 環境研究では共通していた。

 

 ・彼の結論と政策提言の多くは同意でき、一緒に政策提言もした。 

 

・両者の違いは次の点である。 

 

・宇沢の社会共通資本は、社会資本、制度、自然の3要素だが、これを一括し、総合している。 私の共同社会的条件は社会資本、都市、国家、環境であり、それは容器の構成要素として性格は共通性があり 、環境によって総括されるが、それぞれの概念は独自の内容をもっているので一括はしない。 

 

・宇沢は制度としての都市論に言及するが、国家論はない。彼は社会共通資本の解決は公共機関ではなく、 それぞれの問題に応じた専門家集団の判断に従うべきだという賢人主義である。対立したのは自然全体を 資本としたことである。私はcapitalとstockは区別すべきだといったが、これは同意にはいたらなかった。

 

 ・一時は毎月のように会っていたのに、本格的に論争したことがなかった。今から思えばコモンズ学会 (仮称)を一緒に作って、若い研究者を育てればよかったと思っている。 

 

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 『環境破壊とパンデミックの時代における社会的使用価値論の意味 ―宇沢理論との共通性と相違における「容器の経済学」―(20211025) 宮本憲一 環境経済学への道-市場経済学を超えて 

 

地球温暖化はこれまでにない自然災害を起こしています。その原因は化石燃料を大量に使う現代資本主義にあります。IPCCは2030年までにCO2排出量50%以上、2050年0を提案しています。

 

このままでは21世紀を通じて 災害のみならず、食糧危機など破滅的な社会問題が起こるでしょう。

新型コロナ禍による感染症は第二次大戦以後最大のパンデミックを引き起こし、まだ完全な解決策が見えません。

経済に与えた打撃は大きいのですが 、長期的にみれば、おそらく教育に与えた被害が最も深刻でしょう。

 

このコロナ禍の原因も地球環境の破壊に あるのです、経済成長を求めて途上国の農地が拡大し、都市化が進み森林・原野が無くなり、野生動物が人間の生活圏に入り込んできたために、多様なウイルスが野生動物を通じて感染症を広げているのです。

 

 地球環境の破壊は近代化、特に資本主義経済の発展がもたらしたものです。これまでの近代経済学では地球の自然環境を資源と考え、それを商品として市場経済を通じて評価し、GNPを増大することが福祉の向上になる としてきました。

 

しかしそのような経済学は。今進行中の2大危機で破産したといってよいでしょう。これまで の市場経済学に代わる新しい経済学が必要ですが、宇沢弘文の社会共通資本論や私の共同社会(容器)の政治 経済学はそれに応えるものです。

 

両者の比較は後に回すとして、私の政治経済学が形成されてきた道を簡単に説明しましょう。 

 

第2次大戦によって、日本は生産・生活の両面で壊滅的な被害を受けました。このため、国づくりをしなければならなくなり、社会資本の建設を基盤に重化学工業化・都市化による高度経済成長を進めました。

この結果 大気・水の汚染などの健康被害が広がり、海は埋め立てられ、山は削られ自然破壊は放置されました。1961年 私は四日市石油コンビナートの開発で、深刻な公害が起こっているという報告を現地の市の職員組合から受けました。当時四日市は経済成長のモデル地区で、全国の自治体が地域開発の目標としており、公害の発生は全 く報じられていませんでした。

私はすぐに四日市に調査にはいりました。四日市の空は黒く汚れ、悪臭がして いました。コンビナートに接する塩浜の病院では老人と子供が多く入院して、喘息で苦しんでいました。病気 に絶望した女子学生が自殺をしたのですが、市長は第2、第3のコンビナートを増設し、被害者の救済をしていません。 

 

すでにこの大気汚染や異臭魚の原因はコンビナートの企業にあることは県の委嘱で名古屋大学や三重医科大学 の研究者によって明らかにされていました。

私はその資料を取りに、三重県庁に行ったのですが、開発担当の 部長は、この資料は門外不出といって、見せてくれません。

三菱石油に行って、公害防止について調査したの ですが、水処理施設だけを見せてくれ、異臭魚の原因は戦争中に会った海軍燃料廠が爆撃され、その時に沈没 したタンカーの重油だと、でたらめの弁解をしました。

 

私はこの企業や県・市の不正義な態度では全国に被害が波及すると考え、公害を科学的に告発して、被害者を救わねばならないと決意しました。

同時に経済学者と して、このような開発が経済発展であり、市民の福祉は向上していると判断する経済学の間違いを批判し、別 の新理論を作らねばならぬと思いました。  

 

 これまでの経済学では企業の生産額が上昇すれば、GNPの増大によって、市の福祉は増大するとしていますが、 公害による市民の健康被害は評価されていません、生産に従事していない高齢者や年少者の被害は市場経済では評価せず、反対に医薬費の増加となります。

 

造成中の第2コンビナートの地域は白砂青松の素晴らしいリクリエーション地域で、背後地に市営住宅などの住宅が展開していました。この住宅地の全面の海岸が埋め立て られ、第2コンビナートの工場用地が作られ、居住者は最高の海浜環境を失い、大気汚染や騒音に悩まされていました。

 

市場経済学では、市民のアメニティが無くなり、この美しい海岸が消失したことを全く評価しません 。反対に埋め立てて工場用地が完成すると数百億円の国富が生まれたという開発の成果になるのです。 

 

このような経済学は重大な政策上の間違いを生みます。この不正義な経済学を変え、このような開発を阻止し ようと考え、私は公害裁判などの社会活動に入り、国際・国内の公害の現場を調査し、公害・環境経済学を創 設したのです。  

 

 1964年私は環境工学の京都大学庄司光教授とともに『恐るべき公害』(岩波新書)を出しました、当時国語の辞典には公害という言葉はありませんでした。

私たちはこの本で、全国に既に四日市大気汚染だけでなく水俣病など世界を震撼させた公害が起こっていることを地図や年表で明らかにしました。(第1図)政府は環境保全 の法律を持たず、被害の調査や救済は行っていませんでした。当時大学や研究所には公害・環境の学科や学部はありませんでした。私たちの公害研究委員会が唯一の研究会でした。また欧米にも環境法制や環境庁はありませんでした。(第1表)絶望的な状況を打開したのは、公害反対の市民運動でした。 

 

  『恐るべき公害』は約40万部普及したのですが、これを教科書にして、「No More Yokkaichi」をスローガンに 有名な三島・沼津のコンビナート誘致反対運動が起こり、政府の開発政策をストップさせました。

 

それ以後全国 に公害反対の住民運動が起りました。政府もようやく1967年に公害対策基本法を作りました。しかしこれは経団連の圧力で、法の目的として、「生活環境の保全と経済の調和を図る」という経済優先の妥協的な『調和』 条項になっていました。

 

このため全国の公害反対運動は改革と福祉の充実を求め、東京都・大阪府・京都府・ 福岡県、横浜市・名古屋市・神戸市など大都市圏の自治体に、政府の方針に反対の首長を当選させました。

 

この市民運動や社共両党・総評に支持された、いわゆる革新自治体が調和論でなく、「生活環境の保全を」第1に掲げ、公害対策や福祉行政の革新を進めました。

このような市民の世論と運動によって、1970年末政府は公害国会を開いて環境14法を作り、『調和条項』を廃止し、環境優先の法体系に改革しました。翌年環境庁を発足 させました。

そしてなお救済の遅れていた水俣・四日市など四大公害地域では公害裁判が起こり、これがすべて被害者の勝利に終わりました。1970年代には環境行政が緒に就いたといってよいでしょう。(第2図、第2表 )

 

この時期には世界から日本の公害・環境行政は注目されたのですが、その後革新自治体の退潮や新自由主義の政治の潮流によって、日本の環境行政は停滞し、フクシマ原発事故で、史上最大の公害が発生し、今日の地球環境問題ではEUに比べて遅れを取っています。 

 

この公害・環境経済学で作られた理論の中で重要なのは被害論です。 

公害の被害の特徴は3点です。 

 

第1は環境が汚染・破壊されると生物的弱者に被害が集中します。高齢者と年少者が政府の認定した約10万人の 大気汚染患者の70%を占めています。また基礎疾患を持った人が公害にかかる率が高い。これはすべての公害に 共通しています。 

 

第2は社会的弱者に被害が発生します。比較的低所得で家賃の安い劣悪な住宅に住み、栄養の悪い食生活を送っ ている住民に被害が集中します。住工混合地域や高速道路の沿線に住む住民に被害が集中しています。 この2つの基本的条件のため、被害者に自力であるいは自己責任では問題は解決しません。社会的な救済制度が必要です。 

 

第3に被害は不可逆的・絶対的損失を生みます。重度の健康被害や生命の損失は原因者が補償をしなければなりませんが、健康な体や生命は元に戻りません。埋め立てて失った海岸や原生林の破壊は復元できません。公害 ・環境政策はこのような絶対的損失が発生しないように予防することが第1です。このために軍事活動も含めて事業の開始にあたって、費用便益分析の前に、社会経済的評価(社会的価値があるかどうか)も含む環境アセ スメントが必要です。 

 

この3つの被害論は薬害、商品害、今回の感染症のような社会的災害に共通します。また自然災害にも適合する ものです。今回の新型コロナで公衆衛生の欠陥が明らかなように、資本主義、特に市場原理主義の新自由主義の下では予防は軽視され、被害を深刻にしました。 公害問題で市場価値とは異なる社会的価値が政策判断の基準で必要なことが解ったのでないかと思います。

 

既存の経済学に基本的欠陥があり、新しい経済学と政策科学の必要が解ったのでないかと思います。現場を調べ て既存の理論を乗り越える理論を作る経験を話しましたが、今までの話を頭に置きながら、経済学の業績に沿って、社会的使用価値論への道を示します。 

 

社会的使用価値論への道 

資本主義社会では物財やサービスは商品として市場で売買されています。商品は個人や社会的組織に有用な使 用価値があるので、需要を生み、市場で交換価値をつけて取引されています。近代経済学では市場は個人や経済主体が自らの欲望に基づいて、自由に競争し、合理的に選択することによって成り立っているとされていま す。

交換価値は需要と供給によってきまります。清浄な大気や水は人間にとって最高の使用価値を持っていますが、市場価値はゼロです。ダイヤモンドの交換価値は最高ですが、庶民にとって使用価値はゼロでしょう。 この使用価値と交換価値の分離は広告宣伝や情報によって、需要がつくられ、独占が成立すると拡大します。 

 

これはNeedsとDemandsの乖離といってよいでしょう。この結果、大量生産・消費の過程で、社会的に使用価値のないものが大量に作られて、それは廃棄物となり環境破壊の原因になっています。 資本家(企業)は生産手段(資本)を持って、市場で労働者の労働力を商品として購入し、その労働によって 生産物を作り、市場で売買して、利潤を取得しています。

 

この労働力の再生産費のために賃金や俸給が払われ ています。人間の労働には家事労働のように家族の生活のために必要な労働がありますが、賃金は支払われません。

 

また人間の健康や文化のために貢献する労働がありますが、資本にとって利潤の上がらないものは、低 い評価をされ、雇用も制限されています。

 

今回のパンデミックでは医療・公衆衛生・福祉・清掃のような社会にとって、エッセンシャルな労働が極端に不足しいたことに表れています。これは人間社会にとって必要なW orkと資本にとって必要なLaborの分離あるいは相違といってよいでしょう。 

 

これまで市場に供給される財、サービス、労働について社会的に矛盾があることを述べてきましたが、この社会には市場では供給されない財、サービス、労働があります。エネルギー、交通、情報、教育、福祉、医療、 清掃などの多くは都市や公共機関によって供給されています。

これらは社会資本と定義されていますが、ライ フラインといわれているように現代社会の生産と生活に絶対に必要な公共性のある社会的資産です。それは個 人的な欲望を満足させるのでなく集団的・公共的・社会的欲望満足の手段といってよいでしょう。

 

言い換えれば個人的使用価値を超えて、人間の共同体を維持する社会的使用価値を持っているのです。また大気、水、森 、原野、河川、海・生態系などの自然環境がなければ人類は消滅します。人類を持続するためには、地球環境 は必須の社会的資産であり、無限といってもよい社会的使用価値を持っています。 

 

これまでの経済学ではこの社会的使用価値のある財・サービスあるいは社会的資産をどのように扱ってきたで しょうか。公共経済学では民間財と公共財を区別する理論があります。民間財は排除財であり、差別財です。 

民間財はチョコレートのような商品やゴルフや観光サービスのようにお金を出さなければ購入できないし、料金を払わなければプレイできませんし、サービスを受けることはできません。親が危篤だからどうしても飛行機に乗る必要がっても、航空券を買わなければ、親の死に目に会えません。このようにお金を支払わない消費者は排除されます。また支払う料金の多寡によって商品の量や質、あるいはサービスに差別があります。 

 

公共財はそうではありません。消防は料金を払わないといって市民を差別しないし、納税額の多寡によって、 消火に差別はしません。例えば市民税を1億円収めている金持ちの家が火事になった場合に、迅速に完全に消化するが、50万円程度の納税者は半焼にとどめ、生活保護所帯は燃えるに任せるということはしません。火事が 起これば平等に消化します。これは都市という公共空間を守ることが消防の義務とされているからです。

 

この非排除性が公共財の要件です。 公共財は非競合性や共同性があります。民間財は受益者が増えると追加費用が増えますが、公共財は公園のよ うに入園者が増えても追加費用は掛かりません。公園を利用する利益は個人ではなく、入園した全ての個人や 集団全体に及ぶといえます。

 

公園を利用することは市民の基本的権利だからです。 先述の公害は市場の失敗といえます。市場の失敗は市場の欠如と市場の不完全性から生じます。非排除性や共同性を持った財やサービスは市場では供給できないか、供給困難だからです。またある財やサービスの生産・ 流通・消費には外部性があって、そのため市場では最適な供給ができないのです。

 

例えば高等教育は学生にその効果が帰属するだけでなく学生を雇用する企業、ひいては一般社会にその効果が取得されます。しかし企業はフリーライダー(ただ乗り)としてその費用を負担しません。このため市場制度の下では教育費は過少にしか支出されません。

他方マイナスの外部効果は先述の公害や環境破壊です。企業はこれを社会的費用として第三者や社会に負担させています。このように市場に欠陥があるので、公共機関の活動―公共財の供給や公共的 規制が必要になります。 こうして財やサービスは公共財と民間財に区分して、公共団体と民間企業・組織の役割分担を決めることがで きるように見えます。

 

しかし現実には、エネルギー、鉄道、情報通信、住宅、高等教育、医療、福祉などの社会資本を見ると、公共機関だけでなく民間企業が運営しています。

 

混合経済といわれているように今の資本主義は公私混合経済になっています。民間企業が運営する社会資本は完全な排除財ではなく、ライフラインといわれるように市民生活に必須の公共性をもっています。このため民間企業といえども自由がなく、公共料金制 を取り、貧困者を排除できないように、価格を規制されています。

 

また供給義務といって、差別せずに、すべ ての国民に供給する義務を持っています。このことは電力・ガス会社を見ればわかると思います。このように現実の公共財は税金でもって無差別に供給されるものと、料金を取って供給されている物やサービスがありま す。 アメリカの公共経済学者Savasが作った財サービスの分類が現代の混合経済の状況をよく示しています。

 

つまり 公共財に序列があり、それは社会的使用価値によって決まるのです。この表は社会的使用価値の序列を考えるときに参考になります。(第2図)公共部門と民間部門の規範的区分は次の表です。(第4表) 公共機関が供給する財やサービスは公共性がなければなりません。

 

しかし高速道路の大気汚染や騒音のように 公共事業が公害を発生します。コロナ対策を見ても経済活動を重視するために「政府の失敗」が繰り返されま した。

 

資本主義社会では政官財癒着あるいは政軍官財癒着というような民主主義にもとる政治が行われる可能性があるからです。公共性には権力的公共性と市民的公共性があり、現実にはそれが相克しているといってよいでしょう。市民的公共性に基づく行為は社会的使用価値が高いといってよいでしょう。 

 

新自由主義によって、極端な市場原理主義の間違いが起こっていることはすでに述べたように地球環境の危機やパンデミックを引き起こしました。

 

この危機を打開するためには公害・環境経済学の成果を生かさねばなり ません。さらに市民の基本的人権を守り、市民社会を維持していくためには市場原理に代わる理論として、社会的に有用な価値=社会的使用価値を公共財の供給の基準にしなければなりません。

 

規範的になりますが、次の図は公共部門と民間部門の在り方を示したものです。(第3図) 共同社会(容器)の政治経済学と社会共通資本論との比較 地球環境問題で明らかなように、大量生産・大量消費・大量廃棄を無限に続ける資本主義経済は環境を破壊 し、人類社会を危機に陥れています。

 

これまでの近代経済学では地球環境は外部経済で、経済学の対象から除 外していました。 先述のように公害・環境破壊も外部不経済として経済学では無視をしていました。

 

しかし私たちの生命・健康 を維持し、人類の共同社会を維持するためには、人間の共同社会の基礎条件である地球環境や環境破壊を経済学の対象としなければならないことは明らかです。

 

しかしそれにはこれまで述べたように市場原理主義の近代経済学の革命が必要です。 先日のように公害問題に取り組み始めたころに、これまでの経済学では理論化されていなかった社会資本は 、人類が共同体を作った時からの人間の生産・生活の基礎条件であり、それが資本主義社会では資本の生産と 市民の生活の再生産の条件であり、公共性のあることに気付きました。現代ではそれは多様な内容で、量的に も経済の中心です。

 

日本の状況を調査分析してみると資本主義の利害が優先するために、無計画に企業にとっ て都合のよい産業エネルギー、自動車道路、情報・通信施設。港湾、ダムなどに投資が集中し、市民として生 活に必要な住宅、上下水道、清掃施設、教育施設、福祉、医療・衛生が不足をしていることが解りました。『 社会資本論』(1967年、有斐閣)は公害の原論である社会的費用論も入れて、最初の社会資本の理論提示をしました。

 

これを原論として人間の社会的共同体である「都市」を経済学の対象とし、資本主義が集積の利益を追求するあまり、集積の不利益を無視し、社会的生活手段の供給を怠ると、深刻な都市問題が起こることを明 らかにしました。このため都市を維持するためには自治体による都市政策が必要です。

 

日本で初めて『都市経済論』(1980年、筑摩書房)を刊行しました。さらに現代の共同社会の頂点に立つ「国家」と資本主義の関係を明らかにする『現代資本主義と国家』(1981年岩波書店)を出版しました。

 

国家の本質は資本主義体制を維持する権力機関であるが、同時に市民革命によって成立した自由・博愛・平等の市民社会を総括し、維持する共同事務の機関です。 

 

さらに国家を超えて人間の共同社会の究極の基盤は環境です。人類社会が持続できるかどうかは、資本主義経済活動が地球環境を維持できるかにかかっています。

 

今地球環境が危機に陥っているのは資本主義の限界を示しているといってよいでしょう。『環境経済学』(1989年、岩波書店)は日本の最初の環境経済学です。 私は社会資本、都市、国家、環境を総称して、共同社会的条件とし、学生に解りやすくするために、その政治経済学を「容器の経済学」といっています。

 

封建制や資本主義はこの容器の中で生成・発展・死滅する活動体のようなものです。容器というと物体のようになりますが、たとえば「自治」のような制度も入っています。   

 

宇沢弘文は世界の数理経済学界を代表する研究者ですが、ベトナム戦争に反対して、アメリカから帰り、私たちとともに公害研究委員会―日本環境会議の代表的なメンバーとして、水俣病などの公害問題や自動車の公 害・災害の防止に研究を進めるようになりました。彼によれば、帰国して影響を受けたのが、私の『社会資本論』であったといっています。彼は私の社会資本概念を拡張して、社会共通資本の構想を作り、社会的費用の 概念を使って、『自動車の社会的費用』を書きました。この後者はノーベル賞を受けてもよい成果でした。

 

社会的活動では環境問題だけでなく、沖縄問題でも私と行動をともにした友人です。   

彼の社会共通資本や社会的費用による分析は、市場価値から分析するのでなく、使用価値(素材)から入り 、flow分析でなく、Stock分析をするという方法論の点では私と共通しています。彼の現状分析の結論と政策批 判―提言の多くは共通していて同意できるものです。   

 

私の容器の経済学と彼の社会共通資本論と違うのは次の点です。宇沢の社会的共通資本は社会資本、制度、 自然の3要素を一括して総合概念としています。私の共同社会的条件は社会資本、都市、国家、環境、でありそれらは環境という容器に収容されているが、それぞれの容器としての独自の性格を持っています。

 

宇沢は都市について述べているところがありますが、国家論はありません。彼は問題の解決は公共機関ではなく、それぞ れの専門家集団の判断に従うべきだとしています。これは現代の国家に対する批判ですが、一種の賢人主義で す。

 

私は法治国家では、国会の決議に基づいて、政策を決定すべきだが、市民の世論と運動に依存するとしています。私は専門家集団だけでなく、住民参加による公共組織が、政策判断をすべきだと考えています。概念 の相違では、彼は自然を自然資本としています。私は自然を資源として資本化するものもあるが、資本ではなく、人間共同体の資産であるとしています。

 

いいかえれば自然は総体としてはStockであって、利潤を追求する Capitalではないとしています。このように違いがあるが、現状はこのStockが食い荒らされて共同社会の危機を招いていて、これを解決するためには市場原理主義を捨て、共同性の原理=コモンによらねばならないとい う点では一致しています。

 

またこのためにコモンズ再生が必要であるということでは一致しています。この点では彼の生きている間にコモンズ学会を作って、次代の研究者を育てればよかったと今は後悔しています。

 

   地球環境の危機は経済学の革新を求めています。同時にこの危機を乗り切るための社会活動が必要です。

 

資本主義の発展がもたらしたこの被害は、若い世代に被害を集中します。皆さんの地球環境を守る運動への参加 を期待します。 

 

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