【色平哲郎氏のご紹介】 「対内的平等」と「対外的独占」

 

 

ミャンマー、国軍の弾圧で死者510人に 少数民族の地域で空爆、避難民1万人以上 東京新聞 2021年3月30日 https://bit.ly/2PqNAF1 ミャンマー、クーデター2カ月 市街地では爆弾、少数民族地域へは空爆 死者500人超 東京新聞 2021年4月1日 https://bit.ly/39xsyeY 【動画あり】「罪なき人の命守って」   東京新聞 2021年4月1日 三本指で国軍クーデターに抗議のミャンマー国連大使、本紙に語る https://www.tokyo-np.co.jp/article/95022 「国際社会は罪なき人々の命を守ってほしい」 「既に500人以上が残忍な国軍に殺された。心底恐ろしく悲痛な事態だ」 「すぐに国軍への禁輸措置をとってほしい」 「29日付で事務総長(グテレス氏)や安保理議長(トーマスグリーンフィールド米国連大使)らに送った」 「私の書簡が理事国の結束に役立つのを願っている」 日本には「国際社会やミャンマーの経済に大きな影響力がある。国軍との経済的、外交的関係を断ち切ってほ しい」と要望「国軍は国民の願いを完全に無視し、クーデターを起こした」 「内容の確認もしなかった。自分で用意した声明を読み上げることを決めていた」と語った。 「三本指は若者らに浸透しており、命を危険にさらして街頭(抗議活動)に出る彼らを支持していることを示 したかった」「国軍による無実の民間人への残虐行為が、私を国のために立ち上がらせた」 「私を支持するミャンマー国民に支えられ、米政府も協力的だ。ただ、家族の安全への警戒は続けている」 === === ギルドの原理 「対内的平等」 ギルドには掟(おきて)があった。 この掟こそ労働組合機能の源流に他ならない。 マックス・ウェーバーは「西洋中世のツンフトの精神」は、競争に対して仲間の営業を守ることを、 その「命題」にしたところにあると述べた。 この目的を達成する手段として、「対内政策」と「対外政策」があった(ウェーバー、1954)。 それがギルドの「対内的平等」と「対外的独占」という二つの原理だ。 この二つの原理がユニオニズムに深くかかわっている。 「対内的平等」は都市という限られた市場のなかで、成員みんなが営業と生活が成り立つ ようにするための原理だった。 「対内的」とはギルド共同体の内部との意味である。 それではなぜ平等なのか。 限られた市場で、仲間が誰ひとり没落せずに暮らしていくには競争を野放しにしてはならない。 ほうっておけば、屈強でいくらでも働ける強者や財力のある者が他を打ち負かし、 共同体を支配するだろう。 そうならないようにするためには、自由な競争で彼らがのし上がることができないようにすればよい。 仕事をめぐる平等な基準を設定する。 その基準をギルドの成員に守らせる。 そのことで競争は排除され、共同体は保全される。 これが競争規制の原理だ。 この平等こそが「ギルドの全機構の根底にあってその強さの本質をなしていた」 ものだった(ブレンターノ、1985)、、、 この「対内的平等」の原理によってこの時代の職人たちの労働は緩やかだった。 封建社会というと、働く者が厳しく労働させられていたイメージがもたれがちだが、 ギルドが存在しているところはそうではない。 例えば1400年ごろのライン地方の諸都市には、仕事のない日曜祝祭日が110日もあったという。 職人たちはそれでもたりずに、日曜日に大いに飲んで二日酔いになるので、 その翌日を「月曜休日」(ブルーマンデー)にしてしまい、 労働時間をさらに短縮しようとした(プレティヒャ、1982)。 「対内的平等」によって自営職人の営業と生活は安定した。 今日の資本主義社会でも、労働市場のなかで労働者間競争を規制することによって、 労働者全体の生活は安定する。 のちに検討するように、ギルドの「対内的平等」の原理は時代を越え、 その機能は労働組合に引き継がれている。 ギルドの原理 「対外的独占」 「平等」は「独占」がなければ崩壊する。 ギルドの規制はそれがどんなに厳しくても、ギルドのメンバー以外にはおよばない。 もしギルドに属さない職人でも、その区域で営業することができるとすれば、 ギルド非加入者とギルド成員との競争が展開されることになる。 すべての約束事は崩壊する。 それを防ぐためにギルドは、「対外的独占」の原理をつくりあげた。 「対外的独占」とは縄張りである、、、 このようにして「対外的独占」は自分たちの職業の範囲を守り、 また、互いに互いの仕事を荒らさず、共存するための原理として確立していた。q ギルドの相互扶助・親睦 ギルドはたんなる機能集団ではなかった。 共同体の仲間同士の相互扶助と親睦の組織でもあった。 ギルドの組合員の子弟の出産や結婚、組合員の病気や死亡についても、 ギルドの組織が手助けをしていた。 組合員の出生から埋葬までのすべてを共にする、相互扶助の組織でもあった。 ギルドの相互扶助の機能と精神は、のちの職人組合に引き継がれる。 そこでも組合員の葬式は組合でとりおこなわレた。 「死者の棺は組合旗でくるまれ、その上に職人のシンボルである杖が二本と、それに 定規とコンパスが置かれる」というように、職業への敬愛がはらわれていた(川名他、1987)。 ギルドの時代、大きな都市には市参事会の建物や広場とならんで、 豪華なギルドホールがあった。 そこはギルドの会議の場所であるとともに、社交の場、親睦の場であり、 結婚披露宴などもそこで開かれた。 またギルドはそれぞれの居酒屋ももっていた。 組合員はそこで、共に飲み、共に歌った。 「仲間団体とは何よりもまず飲食を共にし、共に歌う団体でなければならなかった」(阿部、1986b)。 仲間(コンパニヨン)とは共に(コン)パンを食べる者たち、という意味である。 このような同職の仲間による相互扶助と親睦の組織は、ギルド形成から19世紀にいたるまで 綿々と続いていった。 「労働組合とは何か」2021 岩波新書 5、6、7、8、9p === === 自由都市とギルド 自律的な取り決めが成り立ったのは、 そこに自由な社会的空間があったからだ。 この自由な空間が中世の市民社会である。 市民社会では封建領主や国家が一元的に 支配を貫くことができない。 だから自分たちが決めた事柄を、支配者に 指図されることなく実現することができた。 今日の近代市民社会もこの自由な空間が 存在し、そのなかで労働組合は自律的な結束 で事を進めている。 ここに中世市民社会のギルドと、 近代市民社会の労働組合との類似性がある。 今日の労働組合運動のあり方を考えるため にも、市民社会の源である中世市民社会を みていくことの意義は大きい。 中世の自由都市のなかに自治の空間があった。 中世の都市はまわりを城壁で囲み、出入り するには、いくつかの門をくぐらなければ ならなかった。 都市に入る門の前には絞首台があった。 つるされた死体が放置され、風に揺れていた。 旅人は驚かされたに違いない。 だが都市に住む市民にとって、この絞首台は 誇りだった。 裁判権を含む自治を、都市の市民みずからが 有していることの証(あかし)だったからだ。 「労働組合とは何か」2021 岩波新書 11p === === こうした一連のバカバカしさというのは、日本の学校や職場が「メンバーシップ」型、あるいは「 ネバネバした共同体」としてのカルチャーを引きずっているからです。そして、そのことが、生産性の低下、 幸福度の低下、そして国際競争力の喪失を招いています。結果的にその集団全体を不幸にしているわけです。 まず教育です。学校は常に「入試で基礎スキルを足切り」して行き、下の学校の最大の目標は「上の学校の入 試(もしくは就職試験)に受かるため」という位置づけが、まずオワコンです。そうではなくて、高校なら高 校の履修内容で、その成績を評価することで大学に行けるし、大学はしっかり学んで、その成果により学位が 出る、その学位の質で就職が決まる、世界の常識はそうなっています。 その結果として、金融工学を学んだ学生、バイオを学んだ学生、税務会計を学んだ学生はそのスキルを評価さ れて、専門職としての雇用を得ます。そして、大学で学んだことが即戦力になるべきです。 また、そのような専門性の上に職歴が乗っかれば、労働市場で競争力が出ますから、仕事のレベルアップを狙 って転職し、そこで給与も良い条件を退き出すことができます。その全体において、個人は採用する企業と対 等であり、社畜として転勤に甘んじたり、単身赴任したりということもありません。 そして、そうした方法の方が、全体が成長し、個人や家族の満足度や幸福度は上がり、上がらないまでも理不 尽な屈折はなく、そして社会も企業も国も産業も、変化しながら持続することができます。 日本の場合は、終身雇用の非専門職によるネバネバした共同体が、企業の意思決定勢力であり同時に守旧派勢 力として君臨しており、その貴族的であり同時に奴隷的でもある特権階級に入るための「受験競争」があると いう制度が長く続いてきました。 https://bit.ly/3ft1MrK 入学式も卒業式もムダ。3月4月すべての儀式が日本人を不幸にする === === 1960年代末、世界はベトナム反戦運動のただ中にあった。加藤(周一)さんは当時、カナダの大学で教鞭をと りながら、北米地域での反戦運動についての論評を発表していた。加藤さんによると、学生たちがまず反戦運 動に立ち上がったが、教授連の腰は重かったそうだ。学問の問題として戦争を阻止する可能性を考えると、そ れは難しいという答えしか出てこないからだ、いまベトナムの農民の頭上にナパーム弾が降り注いでいる現状 に目を瞑るのかどうかという倫理的な問い、人間的な想像力こそが人々を運動に立ち上がらせた、と加藤さん は言う。 それは私にとって、人生の価値を「勝敗」で決めてはならず、行動の原理を「勝算の有無」に置いてはならな いという貴重な教えとなり、大学教員生活をしていく上でも重要な戒めとなった。加藤さんをはじめとする日 本の「善き知識人」たちから受けた知的恩恵と言える。これら少数の「善き知識人」たちから教えられたこと の一つは「寛容」という思想だ。 「寛容」とは、自己満足的な高みに立って他者を憐憫する態度のことではない、生き生きとした人間的関心を もって「多様性」へと心を開くことだ。日本社会は今日まで、「多様性」を受け入れる寛容な社会になること に失敗してきた。このことは、ただ生きにくいというにとどまらず、日本と日本人にとって(世界にとっても )きわめて危険なことでもある。 いま世界覆う不安は「コロナ禍」ばかりではない。私は先頃、ミャンマーの市民に対する軍の暴行場面のニュ ース映像を見て、反射的に思った。「ああ、これは光州だ」。負傷したデモ隊を救助しようとしていた救急車 から、救急隊員3名が軍人たちに引きずり下ろされ、棍棒や銃床で激しく殴打されている場面である。あの救 急隊員はどうなったのか、生命は大丈夫だったのか。その後のことはわからない。このような非道な暴力が、 ミャンマーのみならず、香港、タイ、ベラルーシ、ロシアなどで日常的に繰り広げられている。暴力が「疫病 のように」世界に蔓延している。これはなんという時代なのか?疫病に脅かされながら政治暴力にも怯えなけ ればならない時代である。 あのような情景は私たちに直ちに「4・3」(済州4・3事件)や「5・18」(光州民主化抗争)あるいは「6月 抗争」を想起させる。これらは韓国では「過去のこと」と考えられているのだろうか?「もう安心して良い」 と?私にはそう思えない。次の大統領選挙まであと1年。韓国が、あの暗黒時代に逆戻りしないという保証はな い。 定年後静かな隠退生活を望む気持ちは切実だが、世界はそれを許してくれそうもない。 https://bit.ly/3cDa6DC [徐京植コラム]隠退記  多様性を受け入れる「寛容」と、日本と世界のいま === === 「日本に初めて医学校を建てた人」ポンペ ポンペが、良順と提携し、西役所(海軍伝習所)の一室で正規の医学を開講したのは、安政四年(1857年 11月12日)である。日本にとって歴史的な日になる。 物理学、科学、繃帯学(ほうたい)、系統解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論及び病理治療学 、調剤学、内科学及び外科学、眼科学。このほか、年限に余裕があれば、法医学、および医事法制、それに産 科学を加えるというもので、いずれにせよこれだけの内容のものを、ただひとりで講義しようと思い立ったポ ンペという男も、人間としてふしぎな人物というほかない。おそらく世界の近代医学史のなかで、医科大学の 予科から本科にかけ、すべての学科を一人で講義した人物というのは、ポンペ以外になく、今後も出ないに相 違ない。 ポンペは、学問の上での天才でも何でもなかった。しかもその母校のユトレヒト大学医学部では長期間のコー スを経たわけでもなく、やや短期の植民地医官養成過程とでもいうべきコースを経たにすぎない。ただ篤実な 学生であった証拠に、ノートだけは綿密にとっていた。講義の教材はこのノートだけだった。 二八歳の医師が言語も通じない東洋人たちにいかに懸命に自分の学問を教えようとし、また教えたかったか、 については、帰国後のかれが、一種虚脱に似たような印象の後半生を送ったことから推察できる。 ポンペにとってもっとも困難だったのは、教科書がないことだった。 かれはこのため、前夜遅くまで簡単な講義要領を書くことに忙殺された。 その講義要領を松本良順にわたすことからはじめた。 「物理学とは、物体の力学的運動および熱、光、あるいは電気・磁気現象をきわめる学問である」 というかれの最初のことばは、良順と伊之助によって正確にノートにとられた。 他の学生は、ぼうぜんとポンペの口元をみつめているしかない。 講義の時間が終わるとかれらは良順と伊之助のもとにあつまり、そのノートを筆写した。学生たちが内容を理 解するためには、あと三時間も四時間もかかった。 ポンペの授業はこんなふうにして進められていった。 「これらの学生がその日頃に示した熱心さには私は忸怩たらしめるものがあった」(ポンペの回想録) 学生たちは物狂いしたかのように、不可解な言語と講義内容に挑んだ。 このポンペの開講のニュースは、たちまち日本中の蘭学塾に伝わった。 たとえば緒方洪庵の反応がある。洪庵は大坂で古くから適塾をひらき、日本の蘭学および蘭方医学教育の最大 の草分けという評価を得てきたが、ポンペの開講をきき、自分がやってきた蘭学教育の歴史的使命はおわった 、とした。さらに洪庵は嫡子の平三(のちの惟準)も良順に託してポンペの講義をうけさせている。「日本流 の蘭方医学に時代はおわった」とし、いわば自らを洪庵は否定したのだが、このことはむしろ洪庵という人間 を知る上で大きな課題といってよい。] https://bit.ly/3mcmtJL === === リーダーは、権力の使用が乱用へと変わる道を歩みたくないならば、何ができるだろうか。まず、他者を招き 入れるべきだ。 ~中略~ しかし、幅広い人々の意見を求めることを忘れてはならない。遠回りの質問(「私はうまくやれているだろうか ?」)ではなく、直球(「私のやり方と焦点は、部下たちにどう影響しているだろうか?」)を投げかけるのだ。 -6.権力を手に入れると、思いやりが薄れる- 権力を持った人間は、そうでない人よりも無礼で、身勝手かつ倫理にもとる行動を取りやすい。十九世紀の歴 史家で政治家であったジョン・アクトン卿が喝破した通り、まさに「権力は腐敗する」のである。 ~中略~ 人は自己の長所を土台にして出世するが、立場が上になればなるほど、たちの悪い行動を取るようになること だ。この変化は驚くほど急激に起こりうる。 -7.なぜ人は昇進すると横柄になるのか- https://lib-blog.com/books/business/empathy/ === === 2019年11月13日 高校時代、私の問題意識はただ一つ。 「なぜ、日本は第二次世界大戦に参加することになってしまったのか」 極東で37年から日中全面戦争を戦っていた日本、一方、欧州で39年に英独戦争という第二次大戦を始めた ドイツ。 両者が40年9月になぜ、あえて、イタリアを含む三国同盟(Tripartite Pact)を締結したのか?  理由とその背景は? そして、なぜ、1941年、4月に日本は日ソ中立条約を結び、6月の独ソの開戦後、12月には真珠湾を攻 撃したのか。 なんと日本はソ連と和平を固め、一方のドイツは(39年8月の不可侵条約を破ってまで)英国との停戦なく ソ連に攻め込み、 日本は中国との停戦なく米国を攻撃・・・ 真珠湾攻撃の直後、ドイツが米国に参戦することで、極東の戦争と欧州の戦争が繋がってしまった・・・ 合理的な説明がつかない、紆余曲折と謎が多すぎる支離滅裂なストーリーだった。 みなさんにとってはいかがだろうか? 不合理な、秩序だっていない試行錯誤かのように読めるばかりだ。 「バスに乗り遅れるな」という言葉で雪崩をうってナチスドイツと同盟関係になった、という説明だけでは全 く納得できない。 周囲にある本や解説を読んでもさっぱり背景と真の理由が理解できない。 そんな時、この本に出会って、すべての疑問が氷解した。 2013年に岩波書店からでた「虚妄の三国同盟」(渡辺延志著)である。 なんと、三国同盟条約の外交交渉は成立したといえる段階に到達してはいなかった。 日本とドイツの主張は根幹部分でかみ合わないままなのに、密室の中で、一方の外務大臣(松岡洋右)が嘘で つなぎあわせていた。 その嘘を隠すために、また別の嘘が塗り重ねられた。 つまり、偽りの盟約であり、虚妄の同盟であった、というのである。 昭和天皇をだました手口には、呆れはてる・・・ 日米交渉をサボタージュ・・・ 日本の死者だけで300万人を超え、最終的にアジア諸国の数千万人の生命を失わせたあのアジア大戦争の発 端が このような嘘の上塗りだったのだとは・・・ 1940年締結の日独伊三国同盟は、日本が破滅への道をたどる分岐点だった。 東京裁判の国際検事局(IPS)による尋問調書の中にあって長年埋れていたドイツ人外交官たちの証言を手がか りに、 同盟成立に至る謎に新たな光をあて「松岡外交」の舞台裏とその内実を描き出している。 ==