こんばんは^^
三凛です。
生きていたら、困っている人に遭遇することはままありますよね。
特に、自分に近しい人が困っていると、
多くの人は「助けてあげたい」とか「なんとかしてあげたい」と感じるものです。
家族が職場の人間関係で悩んで憔悴しているとか
友人が恋愛のことで傷ついているとか
同僚が鬱だとか
僕もそういう光景を見た経験は何度もあり、
僕自身が困った経験も幾度となくありました。
僕は、他人が困っている時はもはや何かしてあげようともしないし、
何か聞かれない限り何も言わないし、
過度に手を差し伸べるようなことはしなくなりました。
今、困っている人がいたらどう感じるようになったのかというと
「この人は今、困りたいんだな~」
「自分が被害者で、相手(もしくは人生)が加害者っていうゲームを今はやってたいんだな~」
「この人にとって今が人生の宿題に気づくチャンスなんだな~」
こんな感じで見るようになったんですね。
そして、困っている人をなんとかしてあげたいと思うということは実は
その人の状態を僕の個人的な尺度で勝手に問題視することであって
その困っている人をますます困っている人に仕立て上げることなんだと気づくことになりました。
また、その人が自分の力で気づいて成長することを信じていないから
なんとかしてあげたいっていう気持ちが出てくるんだとも気づくようになりました。
困っている人って、
困っていたいんですよね。深層心理では。
可哀想な人になっていたい、
ひどいことされたり傷つけられたりする経験を引き寄せていたい、
人生の被害者でいたいんですよね。
少なくとも今は。
だから、今は思う存分、困らせておいてあげればいいんです。
可哀想で困っている人をするということは、
自分以外の何かへの復讐の気持ちの表れでもあります。
復讐の気持ちが強いうちは何をアドバイスされようと、自分のフィルターを通してしか受け取れないから
無駄だし、本人はそんなの求めてなかったりもします。
だって、可哀想でいたいんですから。
そういう時期なんですよ。
そういう時期は、周りがとやかく言えることなんてないんですよね。
本当はそこには自分の手でしか解消できない怒りや悲しみがあるから、
人生の被害者をやめたいのであれば
いずれ、自分で気づいて自分の手で解消していくしかないのです。
だけど、人生の被害者として生きていくのが悪いわけではないし、
それを魂が望んでいるんなら、周りが邪魔することでもないんですね。
だから僕は、困っている人がいたら
この人はこの人オリジナルの完璧な人生を送っているんだな~
望んだ通りの人生を送っているんだな~
と、ジャッジすることなく「ただ見る」ということを心がけています。
自分の中の「良い・悪い」は極力捨てて。
僕のエゴで手を差し伸べて、その人の人生の被害者ゲームを邪魔するということはしないことの方に
意識を向けます。
すると、その人は可哀想な人でも困っている人でもなく
ただ魂のプランに従って人間というゲームをやっている人だとわかってきます。
その人が困っていることを問題視していた自分こそがそもそもの根源だったんだとも、、、
僕は、そのことを問題視することで不要に問題を作らないのが、
コーチとして、人としてできる最大の貢献だと思っています。
あなたの大成幸をお祈りしています♪