こんにちは。
ドイツに着いてから初更新です!
この前大学の友達がイギリスでアダム・スミスの像と写真を撮っていて、「おーいいなー」と思ったので今日はアダム・スミスについて書きます(笑)
アダム・スミスという名前、多くの方が聞いたことがあると思います。
”近代経済学の父”なんて呼ばれたりもしますね。
彼は自分がどこにいるのか分からなくなってしまうことがあるほど、考えにふけることで知られていたそうです。
そんな彼の大著が、『国富論』(The wealth of nations)です!(正式なタイトルは"An inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations")
『国富論』において彼は経済学の根本的な問題のひとつを投げかけています。
それは、個人の利益は社会全体の利益と両立するか、ということです。
社会は多くの人間で構成された”チーム”だと。経済を野球と考えると、選手が皆が全打席ホームランを狙うのではなく、チーム全体の利益を求めて動くように、パン屋は儲けだけを考えるのではなく、お客さんの夕食に十分なパンを供給するように働く。そんな風に、皆がお互いに親切にすれば、調和のとれた社会になる。
といったような考え方を、スミスは根底から覆しました。社会は、人々が自分の利益を求めて行動するときにこそ、うまく機能すると主張したのです。
夕食のパンを手に入れられるのはパン屋が善人だからではなく、消費者とパン屋がお互いの利益を求めたことによる結果だとしました。
ここであの有名なフレーズが登場します(笑)
経済と野球チームには決定的な違いがあります。
野球チームには監督がいますね。選手は監督の指示に従って動きます。
しかし、パン屋がどれだけパンを焼けばいいか、どの価格に設定するか、それらを教えてくれる管理者はもちろん存在しません。
各々の商人が最大の利益をあげられるように考えて行動しますね。
これを社会全体、ひろーい視点で見てあげると、社会は「見えざる手(Invisible hand)」によって導かれていると述べました。
ここでひとつ面白い問いがあります。
この「見えざる手」とはつまり、「強欲は善」ということでしょうか?
どうですかね?
スミスは、商業的社会には善意ある人が多くいると見ていました。
人々が利己的であるならば、パン屋は重さを偽り、ビール醸造者はビールに水を混ぜることでしょう。
個人の利益の追求が社会のためになるのは、人々が正直で信頼できる場合だけであるとしました。
スミスはまた、見えざる手が機能する時は、善意ある人々がモノを交換できる自由があるときだ、と述べました。
人間は他の動物とは違い、モノを交換したいという欲望があります。
この交換の結果、職業が専門家する「分業」が出現します。
スミスは労働の専門化によって経済効率が大きく改善することも説明しています。
そうして市場が拡大し、そしてまた専門化も進展する。アダム・スミスはこうしたことが社会の貧しい人を含むすべての人のためになる、と主張しました。
スミスにとって、ある国の富とは、金銀などではなく、その国の経済活動によって国民のために生産される有益な財(パン・ビール・シャツなど)の総量だったのです。これは今日の経済学者と似た考え方です。
経済の目的は、国民が消費するサービスを供給することだ、とスミスは考えました。
誤解がないようにひとつ書いておきたいのは、スミスは経済において政府が大切な役割を担っていると信じていました。
またスミスは、自身が述べたような社会の裏側で生じてしまうであろうとある事実にも気付いていたとされています。
それは、分業は労働者の仕事を単純化するということです。毎日同じ工程を繰り返す。それは労働者を「無知」にするという表現が使われます。
「社会の歯車の一部になりたくない」という表現、たまに聞きますよね。分業により社会の生産量が上がる半面、その背景を知らずに自然とそう感じてしまう労働者がでてきてしまうことを、スミスは見抜いていたんですかね。。。
なんだかまとまりがない締めになりましたが、今回は以上です!
