我々は戦争を知らない。体験したことがない。よって戦争体験もしくは戦場体験が、いかなる影響を及ぼすか、想像するしか出来ない。当たり前だが、体験してからでは、遅い。抑止が効かずに戦争が始まってしまえば、取り返しのつかない事態に推移する。だからその、取り返しがつかなくなる前に、止めなければならない。何より開戦の危機から戻らなければならない。

 では、そうならないために、どうすればよいか?それに対してはまず、個々のレベルでは疑似体験による深部体験の積み重ねによる徹底した刷り込みを通して想像力を醸成するしかない。実体験を避けられない状況に推移してしまえば、悲惨な現実に飲み込まれてしまうから。

 ただし、1つだけ、気をつけなければならないエレメントがある。それが、プロパガンダに操られてはならないことだ。なせなら、プロパガンダは権力闘争そのもので、人の遺伝子に組み込まれた、縄張り闘争の一形態に過ぎないのだから。つまりは、形を変えた戦争に等しい。だから、政治関係は排除しよう。今日の主題は、想像力の醸成について、だ。

 さて、この定義に当てはまるものはなにか?

 核戦争、戦争、そして、そこからもたらされる、主体である自分の、生命的危機。この秀作2作品はいずれも、実際に起きた事件・事象をもとに作品かされている。従って、脚はもげ、半身は吹き飛ぶシーンもある。だが、もし、この作品を見て、トラウマを受けたのなら、それだけ見手の平和ボケが進行してしまっていることの証に過ぎない。戦争によるトラウマが如何なるものか。この秀作2作品の舞台は、年代も異なるし場所も異なる。しかし、ラストシーンは見事に被っている。屈強な兵士の深淵なトラウマの表出を映画という現実体験で、体験してみて欲しい、怖いシーンではないから。そして涙の浄化作用と共に、自らの孫子に、自らに、このような出来事の当事者になることを想像しようではないか。そうしてみれば、そうしてみるほど、映画という媒体の持つ想像力の想起に、感謝せざるを得ない。言葉という電磁波による視覚と、音といいう音波による聴覚と、そして振動を併せ持つ媒体の力を2時間に凝縮した、いずれも秀作。

 次は集団のレベルでの抑止であるが、現在の日本国が置かれた、地政学的状況及び政治的リスクを鑑みれば、政治の選択として、憲法改正は是、軍備増強は是、攻撃を察知した段階での抑止攻撃の装備は是だと強く想う。だが、声を大にして言おう、開戦だけは否、絶対に避けるべきだ。島国である以上、侵略リスクは絶大と言わざるを得ない。一にも二にも、政治力による多国を巻き込んだ交渉による回避。それに尽きる。

 「13時間ベンガジの秘密の兵士」2012年9月11日にリビアのベンガジアメリカ在外公館襲撃事件をもとに2016年1月パラマウントより、「アウトポスト」は2009年アフガニスタンの前哨基地で起きた事件をもとに2020年3月に、それぞれ公開された。