千葉市長メッセージ5月1日

安易な報道から距離を置き、正しい現状理解を

 

5月1日の、千葉市の市長メッセージがとても秀逸だ。幾つかのメディアの記事にも、漸く散見されるようになった。何が最も重要なエレメントかというと、偏向報道は、視聴率やアクセスを安直に稼ぐメディアの悪しき姿勢を助長するという点だが、それのみならず、事実を歪曲し自粛警察によるグレーな行為に正当化をジャブジャブ付与し続ける、連鎖をも生み出すという指摘すら内包している点が最も秀逸な要素であろう。結びがまた、ふるっている。報道機関のこのような姿勢が、“立場と構造上「この危機が長引いても問題ない」側に立ってしまう”という警鐘だ。わたくしに言わせればこの言語の機能は、後天的な遺伝的変異により獲得した言語野という構造が紡ぐ理性化を促す機能を眠らせ、即席的な集団化を促し、さらには暴徒化させるプロセスの機能に酷似している。

 

個人的にはさらに、指摘したい。メディアの公平性・中立性の担保とは本来、事実に基づく多様な取材に裏打ちされた、正確な情報を発信することで、読み手に判断を委ねるところに宿ってきた。それが、言語機能のもう一つの側面~集団化衝動を抑止し、行動原理のスイッチを理性側に引き戻すという、重要な機能を担保することに他ならず、ひいてはそれは、人という種が人間であり続ける、大切な精神に他ならないからだ。この理性的な姿勢が行う情報提供の公平性・中立性を担保する姿勢があってこそ、例えば映画「スクープ」のような、真の社会的な正義による揺り戻しが初めて、実現可能となるのだ。

 

思想の前に、姿勢が問われている。言語を扱うものは、こんな時期であるからこそ、そこに今一度、立ち返りたい。