豊かな連結、そして絆…

昨日はそんな今旬なコトバを使ってみた。
だが、このコトバが厄介なところは、書き手の意図を離れ、まま、独り歩きをしがちになるところだ。だから普段はあまり、安易に使わないことにしている。何故か。

本日はそこを少し。
そもそも我執とは、どこに生まれ、どこで育っているのか、について。

近親憎悪や他者嫌悪も、そもそもその誕生元は自分に相違ない。
自分以外の他者に苦しめられ、他者に翻弄される…。それなら距離をおけば、あるいは断絶するか法的処置をとれば良いだけであるが、それが出来ない、或は後手に回ってしまう。何故に。
そしてそこにこそ、我執が生まれる所以がある。逃れられない自分の中には実は、そこから逃れたくない我執がある。

さて、元の位置に帰ってきました。これ以上掘ると、禅問答ならぬコトバ遊びの哲学になるからやめて先に進むと。
共依存…他者に翻弄される自我の在り方は、自主自立を果たしていない自我の、苦悶の表出に他ならない。
たとえば、人間関係に不満が生まれても、解決するために時間をとって関わることを回避し、あるいは触れることも満足に出来ず、結局様子を見ながら相手の所業に一喜一憂し続ける原因も、そこにある。

そこを是正するには、自分を徹底的に見つめ直すこと。つまりは自己受容にしか道はないのだ。

自己受容をし尽して我を知り、我のこれまでの道程をトレースしてその意義を知り、はじめて自己肯定の道が先に開けてくる。その茨の道をあるき続けてようやく自己肯定に至ることができるのだ。だがその先の自己解放から自己開放に進むには、自分探求へのツール…セルフケアによる自我の安定とメンテナンスが不可欠となる。セルフケアには様々なツールがあって、それらを利用して自身の身体や心のあらゆる扉にオイルを塗って滑りを良くし、眺めて味わってかき抱き、イーコイーコし尽さなければ到底その一連の流れへと歩を進めることは出来ない。そこまで歩み、自主自立出来て、はじめて、あるべき他者探しや他者探求が始められる資格が得れるのだ。

なんでそんなことをするのか、する必要があるのか。それは決まっている、望むと望まざるに関わらず、一定の年齢を経れば、社会を構成する一員にならなければならない。一人で在り続ける。夫婦だけで在り続ける。家族で在り続ける。その在り方は問題ではない。それぞれで良い訳であるが、いずれもその目的は、もって生まれた命の華咲に他ならない訳だ。

自主自立した個は、他者を傷つけ殺める前に適正に他者を回避する。他者への呪詛を持ち続けることは、すなわち未分化な自分を知らないまま我執に苛まれている自家中毒状態で、意味がない。他者と願う良好な関係が築けていないと感じたら、求めるものは他者ではない。すべきことは他者探しでもない。
そう感じた時にやるべきことは、自己探しであり、自分探求なのだ。

一時代を席巻したスーパースター、リチャード・ドーキンス博士を日本に紹介した立役者は、なんといっても竹内久美子しの名著『そんなバカな!~遺伝子と神について』であろう。あらゆる一見利他的な目的の裏には利己的な目的が隠されているという名言にはうなされた記憶がある。自己探求は斯様に奥が深い。我執に苛まれているヒトはもう一度、自己を知り、利己を見つめ直す必要がある。

さて、本日は中三周目の休日。奥方様は講義に出陣。その奥方様が連載記事の初弾を送信。その連載は、
『セルフ・ケア』
う~ん、これこそ自主自立に必須なツールの凝縮となるでしょう。満を持したこの記事がどのように展開するか。大変に楽しみです。なにせ、囚われた意識を変える最短の方法は、なんといっても自身への身体へのアプローチですからね。

まずは自主自立から。そして我執と渡りをつけ飼いならした頃に、不思議なことに突然豊かな連結と絆が見えてくる。セルフケアの真の目的はそこへの到達にこそ、あります。
そして他者との探求も、自己探求に比して遜色ない深さとずばらしさがあるのです。
自己開放の先には他者解放があるのですから。

さてさて、長くなりました。わたくしめも久々に宿題の原稿にかかりましょうかね。

ではまた。


(漕ぎだしましょう)