【横山家の異変Ⅲ】
「失礼します。お茶をお持ちしました」現れたのは三十を過ぎたと思われる女中だった。
「ありがと、あんたは?」
「当家で女中頭を勤めさして貰っている富美代と申します」思っていた以上の上品な所作で三つ指をついて深々と礼をする富美代に光太郎はボ〜っとしている。
「光太郎!」慶三が声をかけた。
「あっ、富美代さんも宗次郎さんと一緒に美里さんが亡くなった時に付きっ切りでいたとか?」「はい。美里ちゃん一生懸命働いていたんですよ…可愛い娘で私も、あの娘が…」
そこまで口にした時、大粒の涙を流して泣き出した。「あまりにも不憫で不憫で…何で、あんな元気だった娘が…」先程までの凛とした態度は思いを堪えていたのだろう。富美代は畳に泣き伏せてしまった。光太郎も慶三も和尚も黙っていた。静かな離れ座敷の中、富美代の泣き声だけが響いていた。
「富美代さん、どうしたんですか?」
宗次郎が半紙と筆、墨などを持って来た。
「あっ、宗次郎さんありがと。富美代さんも可愛がっていた美里さんが亡くなって辛かったんや。俺がそれを思い出させてしもた。悪い事したな…」優しい声で光太郎が言うと、
「し、失礼しました…はしたない事を…」懸命に震える声を抑えて話す富美代に光太郎は「いや、俺が無神経なんや、ごめんな。宗次郎さん、ほんなら順番に皆んなここに顔出すように伝えてな。〝何故?〟って聞かれたら偉い僧侶のご祈祷やからって言うといて」
「あっ、はい…」宗次郎はチラッと、和尚を見て富美代を連れて出て行こうとした時に、「富美代さんはもう良いしな、宗次郎さんを手伝ってあげて」光太郎が優しく良った。
「は、はい…失礼致しました」深く礼をして離れを後にした。
「光太郎!」和尚と慶三がほぼ同時に声を発した。「和尚は今から床の間の香炉に向かって…不動明王の真言を唱えてもらえるか?」
「お願いしますじゃろ!ずっとか?」
「一〇八〇回。それやったら屋敷の人間は二十人そこそこやと思うし、皆が座敷に来ている間や…」「せっかく儂が来ているんじゃ。
それなら孔雀経法を唱えたいんじゃが。拝み屋のお主を助ける意味も含めて」「おう、良いのか和尚?」「お主の為にも新たな智恵を授けよう…」和尚はそう言ったかと思うと、床の間の前に移動して、くるりと背中を見せ、懐から小さな金色の孔雀明王像を真言を床の間に置き、真言を唱え始めた。光太郎は幼い頃から聞いていた慧果和尚の声が好きだった。孔雀経法…大きくなって聞くのは初めてだ。古くは役の小角も唱えていたと言う…「光太郎、僕は何をすれば良い?」一瞬、幼い頃の記憶の中いた光太郎は慶三の言葉に己れを取り戻し、「お、おう、慶三は来た人間に隆平さんの回復を祈って生年月日と氏名を半紙に書く様に伝えてもらえるか?一枚で四、五人は書けるやろう…」「僕が言うの?」「そや。誰が見たって俺より慶三の方が顔が良いしな」当たり前の様に光太郎は言う。「何それ?」慶三は呆れた様に光太郎に言った。「人なんて、そんなもんや。俺のふざけた顔より慶三凛々しい顔の方が言葉に重みがあるんや。俺、その間にちょっと隆平さんとこに行ったり色々して来るからな」「光太郎さん、屋敷の中で呪にかかっている人…睦美さん時の佳月さんみたいな人探すんでしょ?」「おう、慶三は見たら判るやろ?和尚も気で感じるはずや。だから任すな」光太郎が真剣な面持ちで慶三に言う。「分かった…無茶しないでよ」「誰に言っとるんや?とにかく頼んだぞ」「分かったよ」慶三が返事をすると光太郎は念を込めて墨を磨り始めた。たっぷりと硯に墨が溜まった頃に一人目人間が座敷に入って来た。十三代当主隆平の妻、恒である。
「祈祷と伺いましたが…」そう言って慶三の前に座った恒は和尚が真言を唱え、香が焚かれる中で凜然とした態度で言葉を発した。
「こちらに隆平様のご回復を祈って奥様の氏名と生年月日をお願い致します」慶三が惚れぼれする様な物言いで柔和な笑みを浮かべながら頭を下げた。嫌味な笑みでは無い、誰もが安心する笑みだ。恒も引き込まれる様に躊躇なく筆を取った。「改めて申しますが奥様の念を…隆平様のご回復を祈りながら、一筆一筆念を込めてお書き下さい」慶三の言葉にも素直に頷き、筆を淀み無く進めて行く。慶三はと言うと恒の動き、纏っている気を見つめていた。光太郎は和尚の孔雀教法、その抑揚も含めて聴き入っている。
「はい、ありがとうございます」筆を置いた恒に慶三は礼を言い頭を下げた。恒が軽く会釈して離れを出て行くと光太郎は立ち上がり部屋を出て行こうとした。
「光太郎、どこへ行くの?」和尚の真言が続く中、慶三が声をかけると「うん?さっき言ったろ?途中、出入りするって」「もう?」
「あぁ、広い言うても屋敷の結界ぐらい直ぐに張れるしな…」まるで庭に水を撒いて来るぐらいの気安さで言う光太郎に「まだ向こうに気づかれ無い方が…」と、慶三は言いかけたが、そんな事も分かった上での行動だと口を噤んだ。廊下から「あっ、こんにちは!中で待っていますよ〜」光太郎の軽い声がしたと同時に十四代隆俊の妻、彰が部屋に入って来た。