故マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)さんの子どもたち3人が8日、マイケル
さんが描いた絵画13点をロサンゼルス小児病院(Los Angeles Children's
Hospital)へ届けたらしい。

早速、「マイケル・ジャクソン」をWikiで調べてみよう!

【マイケル・ジョセフ・ジャクソン(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 -
2009年6月25日)】は、アメリカのミュージシャン。

「ポップ・ロック・ソウルの真の王者(the true king of pop rock and soul)」、
「ポップ界の王(King of Pop)と称される。ギネス・ワールド・レコーズでは「人
類史上最も成功したエンターテイナー」として認定されている。CDやビデオなどの世
界総売上げは7億5,000万枚以上に昇る。VH1が選ぶ最も偉大な100のアーティストで、
ビートルズに次ぐ2位[1]。ローリング・ストーンが選ぶ最も偉大なシンガー100人で
は25位[2]。

2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに呼吸
停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。50歳没。

【1958-1970】10人兄弟姉妹の7番目(六男)として、インディアナ州ゲーリーのアフ
リカ系アメリカ人街に生まれる(すぐ上の兄マーロンの双子の兄弟は、誕生後すぐに
死亡した)。ゲーリーは、住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で
最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人達にとっては最初の黒人
市長が1967年に出た、誇りの土地でもある。当時は、黒人の自己主張が高まりだして
いた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法
状態が蔓延していた。

父のジョセフ・ジャクソンは、USスチール社の製鉄所の貧しいクレーン操縦士であっ
た。母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様であっ
た。その活動の一環である家庭訪問は「Thriller」発売後も行っていた[3][4]。父親
は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンは「シアーズ」
などの小売店でパートタイムとして働くことで、家計を何とか補おうとしていた。

父は「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アー
ティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1957年に白黒テレ
ビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。

ところがある時、愛蔵のギターを息子達が隠れて演奏していると、弦を1本切ってし
まう。勝手に切れたと思ってほしいという願いもむなしく、ジョセフに問われ、「殺
される」と恐れたが、意外にも冷静に「演奏して見せろ」と言われ、ティト達が必死
になって演奏すると、ジョセフはなかなかうまいことに気がついた。「これはひょっ
とすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれない」と思った父は、息子達に歌と
ダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキー、ティト、ジャーメインと従兄弟とされ
ていた2人(実は他人)で、1962年にボーカルグループを結成した。

翌年、マイケルは兄マーロンと共に2人の「従兄弟」と入れ替わりにグループに入
る。マイケルは幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウン
ド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌っていた。マイ
ケルは当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンド「Ripples & Waves
Plus Michael(のち「the Jackson Brothers」と改名)」の一員として頭角を現し
た。

初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であっ
たが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出
演することで、地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。

1965年には、地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストで、テ
ンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、優勝した。

1966年に、4人の兄達と「ジャクソン5」(ジャクソンファイブ)を結成。ゲーリーの
ナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ
劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これにより、ジャクソン
5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時は、まだまだ
駆け出しであったため、前座の出演であった。この過程で、ジェームス・ブラウンや
ジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど、様々なスターのパフォーマンスを勉強
した。

地元では、インディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出
しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。

当初、ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、聞こえがよかったのでダイア
ナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝し
た彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベ
リー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削り
ながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモー
トを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を
紹介させるという経緯だった。

1968年7月に、モータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの」(I
want you back)でメジャーデビュー(マイケルは当初8歳の設定だったが、実際には
11歳だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、いきなりヒットチャート
全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながら、ビブラートが掛った声が
ファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手は、ビートルズの「レット・
イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし1位を獲得。続く「小さな
経験」(The Love You Save)「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続
で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。

【1971-1980】
マイケルは、1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月
には、人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年に
は、「Ben」もヒットした。

1978年、ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「Wiz」(オズの魔法使いのアレン
ジ)にカカシ役で出演していた際、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズ
と出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と
言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わってい
る。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しな
かった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」が、エピックでの
デビュー曲であった。

【1981-1990】
1981年3月には、1975年発売の「フォーエヴァー・マイケル」から、「想い出の一
日」(One Day In Your Life)がモータウンから発売されたが、「オフ・ザ・ウォー
ル」の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得し
ている。1981年12月には次回作のため、「オフ・ザ・ウォール」では「Girlfriend」
を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実
を結び、ポールと正式にコンビを組むことになり3曲のデュエット(「The Girl Is
Mine」「Say Say Say」、そしてポールのアルバム「パイプス・オブ・ピース」に収
録された「The Man」)を後に生むことになる。ポールとはプライベートで一緒にな
ることが多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを観た
とマイケルは語っている。

1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督
の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。ナ
レーションのほか、このアルバムのための楽曲“Someone In The Dark”を提供し
た。1982年8月には、クインシーと2人でロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに
篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかし
がり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌お
うとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム「スリラー」は全米
チャートで37週にわたり1位を記録。日本でもオリコン史上初の洋楽アルバムによる
ミリオンセラーを達成。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・
ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、「スリラー」はアルバムの売り上げの世
界記録を更新した。

1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞・作曲の曲で、曲とビデオの両面で
ゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている[要出典]。2005
年の無罪判決の時もジャーメインが「Larry King Live」に出演した時、司会のラ
リー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問してい
る。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出
ていることを念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。こ
の作品は黒人であるにも関わらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、
「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品のひと
つとして知られている(もうひとつは、プリンスの「Little Red Corvette」であ
る)。

1983年5月には、モータウン25周年コンサート(Motown 25: Yesterday, Today,
Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した(ビデオ映
像)。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」
を歌うことを条件に出したとされている[要出典]。この初披露のムーンウォークでは
爪先立ちが上手く出来ず本人の満足のゆくものではなかったという。

1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシの
CMでライブバージョンを撮影中、アクシデントが起こった。階段最上段からステージ
に降りてくる途中で散らす予定の火花が、階段最上段にいる状況のまま散った。髪に
火がついた状態のまま登場したマイケルは、頭頂部に大きなやけどを負った[5]。こ
の時は皮膚移植手術によって完治した。ペプシ側はマイケルに対して推定3億円あま
りの賠償金を支払ったが、マイケルはこの賠償金の全額を治療した病院に寄付した。
また、この一件についてペプシ、製作者側を非難することはなく、両者の関係が悪化
することもなかった。

1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加
し、その際「We Are The World」をライオネル・リッチーと共作した。その姿勢は評
価されたが、「バンド・エイド」の模倣であるとの揶揄、アメリカ中心主義ではない
かとの批判もされ、賛否両論の結果となった。楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的
で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。
ロナルド・レーガン大統領から授与された際、マイケルは右手に白の手袋をしたまま
握手をしたため、一部から不評を買った[6]。この頃から彼は持病として皮膚病を
患っていたため、手袋を外せなくなっていた。

同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4,750万ドルで購入。
ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット・シングル
(「The Girl Is Mine」、「Say Say Say」)を発表するなど親交が深かったが、マ
イケルの所持する大量のビートルズの版権をマッカートニーが売買してくれないかと
交渉を持ちかけたところマイケルが断ったため、その後はさほど仲が良くない。な
お、マイケルに音楽の版権を投資対象として買うよう勧めたのはマッカートニーで
あった[7]。マッカートニー自身は不仲説を否定しており、マイケルの没後には「マ
イケルが版権を残さなかったことで私がショックを受けているというのはまったくの
事実無根」「マイケルと私は実際、何年にも渡って疎遠になってはいたが、仲違いし
ていたわけではない」と声明を出している。[8]マイケルはビートルズに対して特別
な思い入れがあり、ジョン・レノンの次男ショーン・レノンと1988年の「ムーン
ウォーカー」で共演したり、「Come Together」をカバーしたりしている。なお、
ビートルズの版権は20年後の2005年時点でも、購入した版権の半数を所有していた。

1986年5月、ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や公演も
受け持つことになったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。8
月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のア
ルバムの制作に取り掛かった。

1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版され、4月のニューヨークタイムズ・ベ
ストセラー・リストで初登場1位を獲得した。この頃、社会的な問題に対しても目を
向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌
い、後のマイケルの作風につながる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸
国の人物であるマイケルが出演したことで話題となった。また、この頃ビートルズの
版権を大量購入するなど、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽
曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。この曲はダイアナ・ロ
スを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。

1989年、BREアウォーズでポップ・ロック・ソウルの三部門を制した。エリザベス・
テイラーはこれを「The True King of Pop, Rock And Soul」と称した。

【1991-2000】
世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、更なる極みを目指し
「Dangerous」を制作。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消
した。1991年10月に発売されたこのアルバムからの先行シングル「Black Or White」
は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国
以上で1位を獲得。全米チャートでも7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップ
チューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に
独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリ
ラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の
映像技術であるモーフィングが採用され話題となった。

1992年1月には「Remember The Time」を発売。翌月公開されたショートフィルムはエ
ジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィー、イマン・アブドゥルマ
ジド(デヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと共演した。このショート
フィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。この
ショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。テディ・ライリー
は2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と
言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり
日程を短縮した。この際に訪れたコートジボワールでは「サン族の王冠」の称号を授
与されている。

1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを
行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付され
た。1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領
祝賀会」での就任コンサートで「Gone Too Soon」「Heal The World」を披露した。2
月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にネバーランドでのラ
イブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマ
イケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジ
オで同曲のリクエストが全国的に殺到する“事件”が起きた)。彼が皮膚病の尋常性
白斑に罹患していることを公表したのも、この番組の中であった。

1993年スーパーボウル第27回大会のハーフタイムショーでライブを行う。大型のビ
ジョンの中で踊るマイケル。その後、画面から上部に飛び出しヴィジョンの上でダン
ス。さらに中央のステージまで瞬間移動するというもの。さらには、1分13秒間ス
テージ上で静止するという前代未聞のパフォーマンスを見せ、ジャクソンのハーフタ
イムショーはスーパーボウルの前半戦よりも高い視聴率を記録した。このジャクソン
のパフォーマンスは、スーパーボウル・ハーフタイムショーの新たなスタンダードを
築いたと言われている。彼はスーパーボウル・ハーフタイムショーの伝統上、ノー
ギャラでこのライブを行った[11]。その結果、スーパーボウル単体としての価値が上
がり、現在のような世界のトップアーティストを毎年ハーフタイムショーに招くこと
が定着していった。半年後の1993年8月、彼はマイケル・ジャクソンの1993年の性的
虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。

1994年には、MJJプロダクションズを設立した。1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・
マリー・プレスリーと電撃結婚。1994年10月のベスト・アルバム発売が予定されてい
たが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)
「HIStory」を発売した。タイトルは“history”と“his story”を掛けたものであ
る。当初は新曲は4曲で1枚のベスト・アルバムの予定であったが、延期され新曲が大
幅に追加された。収録曲「D.S.」(この楽曲の名称はマイケルを訴えようとした検察
官トム・スネドンを暗示したものと言われている)などマイケルにしては世間に対す
る主義主張の強い、イデオロギー性の強いアルバムである。

1996年4月には「They Don't Care About Us」をシングルカット。ところが、歌詞の
一部が反ユダヤではないかとして批判を浴び、マイケルは自身が反ユダヤではないと
弁明することとなった。ミュージックビデオのうちプリズンバージョンはMTV等の番
組で放送が自粛され、ビルボードでは最高30位。しかし、ドイツでは首位を獲得して
いる。1996年9月から3度目の世界ツアーを行う。韓国では熱狂した少年がマイケルの
乗るゴンドラに飛び乗るというハプニングもあった。11月14日にデビー・ロウと二度
目の結婚。

1997年、突如「Blood on The Dance Floor」(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。600
万枚以上の売り上げを記録した。マイケルは表題曲をエルトン・ジョンに捧げたとさ
れている。詳しい経緯は分かっていないが、エルトン・ジョンはエイズの少年ライア
ン・ホワイト(1971年-1990年)に関する話でかつて協力し合った仲である。エルト
ン・ジョンは後の裁判の際には最後まで沈黙を守り続けている。この直後、ソニーと
の確執は表面化し、1997年10月に発売されるといわれていた「ヒストリー」からの第
7弾シングル「スマイル」が販売停止となった。

1998年7月に来日し、世界空手道連盟加盟団体の士道館から名誉五段を授与される
[12]。またこの際に「マイケル・ジャクソン・ジャパン」の設立を発表し、日本をは
じめとして、アジアやアメリカでテーマパーク「World Of Toys」の建設や、国内外
での玩具店の直営及びフランチャイズ方式での経営を行う計画を発表するが、その後
計画は解消となる。

1999年6月にはマイケルと有志の友人たちがふたつのチャリティコンサートを開い
た。収益金は赤十字、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。この頃
ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーの
ウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクション
にデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をか
けていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。この当時何曲
かのシングルの発売の噂は出ていたが、1つも実現しなかった。

【2001-2005】
2000年12月12日に第16回ロックの殿堂入りが決定され、2001年3月に正式にロックの
殿堂入りした。なお、マイケルはジャクソン5としても1997年に殿堂入りしている。

2001年8月、『Invincible』の先行シングルとして発売された「You Rock My World」
はフランスで5週連続1位を獲得。スマッシュヒットとなる。「Butterflies」は米国
内でラジオ向けにシングルカットされたのみで、CDとしてのシングルカットはなかっ
たのにもかかわらず、大きな反響を呼びエアプレイだけでビルボードで14位まで上り
詰め、R&B・ヒップホップシングルチャートでは2002年年間12位を記録した。同年9月
7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝うコンサート「Michael
Jackson: 30th Anniversary Celebration, The Solo Years」を行った。日本からは
安室奈美恵が駆けつけ、オノ・ヨーコも参加した。9月7日は兄弟達と出演し、終幕は
クインシー・ジョーンズの指揮で出演者全員による「We Are The World」が演奏され
た。9月10日には最後の「You Rock My World」でアッシャーとクリス・タッカーがパ
フォーマンスに参加した。コンサートはチケット総売り上げ額10,072,105ドル、観客
総動員数34,884人と成功のうちに終わった。しかし、その翌朝アメリカ同時多発テロ
事件が起こる。これにより密かに予定されていた「Invincible World Tour」が中止
となった。

2001年10月、最新オリジナルアルバム『Invincible』を発表。タイトルは「無敵で、
いつまでも成長し続けることで人々のために貢献する」という意味合いを込めたも
の。当初は1999年11月9日発売の予定だったものが数回延期され、2001年10月30日
(US)発売となった。このリリースの直前、レコード会社の凄まじい圧力に痺れを切
らしたマイケルはトミー・モトーラにもはやこのアルバムで最後だと通知した(実
際、このアルバムが生涯最後のものになった)[13]。この後マイケル側とレコード会
社側は激しいバトルを繰り広げることになる。(後述ソニーウォーズ)

2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から
生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せた。マスコミが「手すりの辺りで
ブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連し
ベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。訴追はされなかったが、世
界的な非難を浴びて「弁解はしません。私は大きな過ちを犯しました。(あの時)と
ても興奮していました。私は自分の子供たちを故意に危険にさらすようなことは、絶
対にしません」と謝罪した。マイケルの友人であるユリ・ゲラーは「マイケルには多
大な精神的プレッシャーがかかっていて、また時差ぼけもあります。彼のしたことは
間違っています。何も考えていなかったのでしょう。興奮しすぎていたのかもしれま
せん。でも最高の父親です」と語っている。なお、この際子供の顔を隠していたこと
も一部で話題となったが、これはパパラッチから子供たちを守るために顔を隠してい
ると言われている[誰によって?]。

2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・
エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェー
ムス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加した。ステージ上でマ
イケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりのことであった。その後マイケルは
「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自
らの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。この際、会場にはマイケルと共に
ラトーヤも姿を見せた。この年、ノーベル平和賞に再びノミネートされる。同時多発
テロ被害者の支援のために作られたにもかかわらず、長らく棚上げの状態が続いてい
た「ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ」であったが、何とかして発売できないか
と検討した結果、オンラインで2ドルで販売されることが決定し、2003年10月にダウ
ンロードが始まった。これによって集まった資金は子供の組織に寄贈された。2003年
11月18日にベスト盤「Number Ones」をリリース。この直後マイケルは性的虐待疑惑
で逮捕され、いわゆる「マイケル・ジャクソン裁判」が始まり、世界各国のマスコミ
から衆目を浴びる。

2004年12月15日限定発売ボックスセット「The Ultimate Collection」を発売。アル
バムの中には、イラク戦争に対する反戦歌として2004年にレコーディングされた
「We've had enough」も収められている。

2005年6月13日、性的虐待疑惑のすべての件に関して無罪評決が下る。同月、裁判の
療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住した。2005年7月、2枚組のベスト盤
「The Essential Michael Jackson」を発売。アメリカでは最高位96位と振るわな
かったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランス(コンピレーションアル
バムチャート)やベルギーでは首位を奪う(フランスではコンピレーションアルバム
チャートで6週もの間首位の座を守り続ける)。2005年のハリケーン・カトリーナの
被害に際してもチャリティシングル「I Have A Dream」を企画。だが、前回同様にレ
コード契約を決めないまま制作した影響もあり、現在発売未定となっている。仮名は
「From The Bottom Of My Heart」であり、正式名称はキャロル・ベイヤー・セイ
ガー、デヴィッド・フォスターと共作した1999年10月発売予定だった曲の名前と同じ
である。

【2006-2009】
2006年には、元ジャクソン5のドラマー、ジョニー・ジャクソンが刺殺される事件が
発生する。同年マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(Visionary:
The Video Singles)として再発売され、スペインのチャートではマイケルの曲が再
発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げ
た。2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラー・ビン・ハマ
ド・アール・ハリーファとの合弁会社、トゥー・シーズ・レコーズと契約。同年5月
26日、1998年世界空手道連盟のイベントに出席して以来の来日。「日本にはいい思い
出がたくさんあるのでとても楽しみ。変わらぬ愛で僕をサポートしてくれたファンの
みなさんに会えることを楽しみにしている」と語る。27日、日本でMTVジャパンが主
催する「MTV Video Music Awards Japan」に出席し、裁判以降初めて公の場に姿を現
した。28日自身の子供達と共に児童養護施設「星美ホーム」を訪問。29日にはアジア
財界のメンバーと会談した後に、YOSHIKIや叶姉妹らと対面した。また、6月5日放送
のSMAP×SMAP(収録は5月31日)に飛び入りの形で出演した。マイケルがテレビのバ
ラエティー番組に出演するのは世界で初めてのことである。関東地区の視聴率は22.0
パーセント、瞬間最高視聴率は25.9パーセントを記録した。出演料は20万ドル(約
2000万円)。結果的にこの出演が生前最後のテレビ番組出演になった。

2007年3月4日にファン感謝イベントに参加するために成田空港より約1年ぶりの来
日。3月5日、子供たちのためにビックカメラ有楽町本店を貸し切っておもちゃなどを
購入。3月7日、東京ディズニーシーを初訪問。3月8日と9日に「ファン感謝デー」が
開催。3月10日14時過ぎ、神奈川県の在日アメリカ軍基地の「キャンプ座間」の「ヤ
ノ・フィットネス・センター」でおよそ3000人の兵士やその家族から歓迎を受ける。
3月14日に離日。

2008年2月、スリラー25周年記念エディションをリリース。エイコン、ウィル・ア
イ・アム、カニエ・ウェストらによる同アルバム収録曲のリミックスが収録されてい
る。2008年9月、「Michael Jackson King of Pop」をマイケル生誕50周年を記念して
リリース。世界20ヶ国以上でそれぞれの国でファン投票を行い、日本盤ではその中の
15曲が収録された。

2009年3月5日、「7月にロンドンのO2アリーナで10公演を行う。これは“生涯最後の
公演”(ファイナル・カーテン・コール)になる」と発表。その後「THIS IS IT」
(This is it.)のタイトルで50回に渡る公演が行われることが発表された。チケッ
トは全公演分が即日完売した[14]。なお、当初は7月8日からスタートする予定であっ
たが、7月13日からのスタートに延期された。また、この頃より「THIS IS IT」の準
備及びリハーサルに入った。

2009年6月25日(カリフォルニア時間)14時26分に死亡が確認される。50歳だった。
彼の死は全世界のレコードチャートに影響を与えた。全英では直後に「Number
Ones」が1位を獲得。その後「The Essential Michael Jackson」が7週連続で1位を獲
得。本国アメリカのビルボードチャートでは当時は新譜のみ扱うというルールがあ
り、マイケルの作品は旧譜のカタログ扱いでランクインされなかったが、サウンドス
キャンからの総合セールスでは「Number Ones」「The Essential Michael Jackson」
「Thriller」の3作がこの週首位のブラック・アイド・ピーズの「The E.N.D.」を上
回る売り上げを記録。カタログチャートの作品がビルボードの本チャートで首位の作
品をセールスで上回る現象はビルボード史上初のことであった。なお、この年の12月
5日付けのチャートからこのルールは変更され、旧譜もランクインできるようになっ
た。

2009年6月29日ジャクソンのスタジオ・アルバム5作品を紙ジャケット仕様にしたボッ
クス・セット「The Collection」がヨーロッパでリリース。2009年7月7日「THIS IS
IT」のリハーサルを行なっていたロサンゼルスのステイプルズ・センターで追悼式が
開かれる。遺族や親交のあったミュージシャン、抽選で選ばれたファン等2万人が参
列。当時11歳の娘、パリスは「生まれた時からずっと、ダディはこれ以上ないくらい
最高な父親でした。すごく愛してるわ。」とスピーチし、泣き崩れた[15][16]。

2009年9月17日に裁判所から5億ドルとも言われるマイケルの遺産の行方に関する法廷
文書が公開された。その文書によるとマイケルの母であるキャサリン・ジャクソンに
孫であるマイケルの3人の子供達の養育権を与え、キャサリンが現在、暮らしている
マイケルの邸宅の維持費の他に介助費、洋服代、使用人への賃金、娯楽費など合計で
2万6000ドル(日本円で約240万円)、子供達には世話係への報酬、娯楽費など3人で6
万ドル(日本円で約550万円)の合計8万6000ドルが月ごとに支払われることが明らか
になった。マイケルは生前からキャサリンを経済的に支えていたため、子供達の永久
後見人に指名された彼女を今後も遺産でサポートするように遺産管理人は裁判所に求
めていた。

2009年10月12日インターネット上で未発表曲「THIS IS IT」が解禁となる。2009年10
月28日「THIS IS IT」のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画「Michael
Jackson's This Is It」が全世界で同時公開される。監督はケニー・オルテガ。当初
は2週間限定上映であったが、人気により2週間上映が延長された。日本では週末興行
収入3週連続1位を獲得した。 また映画のサウンド・トラックである「Michael
Jackson's This Is It」も同時に発売された。このアルバムはオリコンチャート初登
場1位を獲得。これは「BAD」以来23年ぶり3作目の記録であった。

2009年11月、マイケルの父親であるジョー・ジャクソンがマイケルの遺産から毎月1
万5000ドル(日本円で約130万円)以上を支給してもらえるように裁判所に申請書を
提出していることがわかった。ジョーは2002年にマイケルが書いた遺書に記述がな
かったために遺産は一銭も相続されないことになっている。ジョーは毎月1700ドル
(日本円で約15万円)の社会保障費が支払われているが、足りない分はマイケルから
の援助で生活していた。裁判所に申請されたものでわかっている内容は家賃1200ド
ル、外食費2500ドル、交際費1000ドル、旅費2000ドル、宿泊費3000ドルなどとなって
いる。2009年11月5日 マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑の中心人物だっ
た男性、エヴァン・チャンドラー(訴えを起こした少年の父)が遺体で発見された。
拳銃自殺とみられている[17][18]。

2009年12月7日付けオリコン音楽DVDチャートで「Live In Bucharest: The Dangerous
Tour」が5位を獲得。その後、歴代洋楽DVD売り上げランキングにおいて第1位になっ
た。2009年12月30日ジョン・ランディスが監督した「Thriller」のミュージック・ビ
デオがアメリカの国立議会図書館に永久保存される。ミュージック・ビデオが保存さ
れるのは今回が初めてである。

【2010-】
2010年1月1日「The Collection」が日本でリリースされる。しかし、通信販売限定商
品としてだった。アメリカでは発売されていない。2010年1月27日映画「Michael
Jackson's This Is It」のDVDとBlu-rayがリリースされ、オリコン週間DVD総合
チャートとオリコン週間Blu-ray総合チャートで、2月8日から3週間連続第1位を獲得
した。

2010年6月、マイケルが2002年に書いた遺書から財産の分与の相続手続きの内容に関
して、米Aceshowbizによれば、95年にマイケルが財産管理のために設立した財団『マ
イケル・ジャクソン・ファミリー・トラスト』を通じて、遺産の40%はマイケルの母
であるキャサリン・ジャクソンに、残りの40%はマイケルの3人の子供達に、20%は
チャリティ分与されることがわかった。また、キャサリンが亡くなった場合、彼女が
相続した9900万ドルの残高は子供達のものとなり、子供達が30歳になった時に相続す
る遺産の1/3である3300万ドル(日本円で約30億円)を、35歳で1/2を、40歳までに残
りの全額を自由に使える権利を得ることになる。マイケルの親族は「マイケルにとっ
て母親と子供達は最も大切な存在だった。だからこそ、彼は自分が死んだ時に彼らが
恩恵を受けられるように注意を払っていたんだ」と語り、「マイケルが望むとおり、
子供達は十分な生活が保証されている。彼らが遺産を得る時には成熟した分別のつく
年頃になっているだろう」とコメントしている。なお、マイケルは元妻デビー・ロウ
とリサ・マリー・プレスリー、兄弟のジャーメイン、ジャッキー、ティト、マーロ
ン、ランディ、ラトーヤ、レビー、ジャネットそして父親のジョーには一銭も遺して
いない。

2010年6月2日、マイケルの故郷であるインディアナ州ゲーリーに3億ドル(日本円で
約227億円)の予算をかけてマイケルに捧げる博物館を建設する計画が動き出したこ
とがわかった。マイケルの父であるジョー・ジャクソンとゲーリー市当局はジャクソ
ン・ファミリー博物館、マイケル・ジャクソン舞台芸術&文化センター、ホテル、劇
場の建設が来年にもスタートすることを発表した。マイケルは生前、2003年にゲー
リーを最後に訪れ、このプロジェクトについての交渉を行っていたが、その後の進展
はなかった。父親のジョーは「マイケルと私たち家族が待ち望んでいた計画だ」と
語っており、ルディ・グレイ市長も「このプロジェクトが何千という雇用を生み出す
ばかりでなく、完成すれば世界中から年間少なくとも75万人の観光客がゲーリー市を
訪れ、毎年1億ドル(日本円で約92億円)から1億5000万ドル(日本円で約138億円)
の経済効果が得られると見積もっている。寄付と投資によって建設費はまかない、
ゲーリー市が300エーカー(1.2平方キロメートル)の建設地を提供する。不況にあえ
ぐゲーリー市住民も博物館の建設に前向きだ」と語っている。

2010年6月25日日本でドキュメンタリー映画「Michael Jackson Commemorated」が公
開となる。この映画は、ジャクソンのマネージャーであったマーク・シャフェルが監
督したもので、シャフェルが10年間ジャクソンを撮影したプライベート・フィルムが
元になっている。

2010年8月、BANG Media Internationalによると、マイケルが息を引き取ったロサン
ゼルスのボーンビー・ヒルズにある敷地面積1.26エーカー(約5100平方メートル
/1545坪)の豪邸が2900万ドル(日本円で約26億1000万円)で売りに出されたとい
う。マイケルは生前にこの豪邸を月額10万ドル(日本円で約900万円)で借り、子供
達と一緒に住んでいた。この豪邸は2008年に3800万ドル(日本円で約34億2000万円)
で一度売りに出されていたが、買い手がつかずに値引きで新たに売りに出したとい
う。フランスのシャトー風の造りになっている豪邸には7つの寝室とトイレが13室、
ジム、試写室、スパ設備、試飲部屋つきのワインセラーを備えているほか、ガレージ
には7台の車を収容することができるという。

2010年10月25日、米経済誌フォーブスがすでに死去した著名人が2009年10月1日から
2010年10月1日までの1年間に稼いだ金額に基づき『死後、稼いだ著名人ランキング』
を発表し、マイケルは1年間で推定2億7500万ドル(日本円で約222億円)の収入を上
げてランキング1位になることがわかった。マイケルが1位を獲得した要因として、
公開された『THIS IS IT』の大ヒットに加え、楽曲の売り上げも好調だったためとい
う。同誌は著名人の遺産管理業務に携わる弁護士の話として「いずれは下降線をたど
るものの、少なくともさらに数年は多額の収入をもたらすことは確実」と指摘した。
このランキングは13人の死去した著名人からなるランキングだが、1位のマイケルの
収入は2位以下12人[19]の合計収入より多かった。

2010年12月、生前の未発表曲を集めたアルバム「Micheal」がリリースされる。

2010年12月、TMZ.comによると、マイケルの元邸宅で現在は不動産会社コロニー・
キャピタルが所有するネバーランドをマンハッタンにあるジュリアード学院の音楽院
のような作曲や演奏など音楽に関するあらゆることをカバーするティーンエイジャー
のための音楽学校にするビジネスプランを練っていることがわかった。しかし、この
計画には2つの問題があり、1つは「ネバーランドのあるサンタバーバラ郡から音楽学
校の設立の許可を得られるか」、もう1つは「学校にマイケル・ジャクソンの名前を
使用できるかどうか」ということだという。この計画に対し、マイケルの遺族は「非
常に面白いアイデアで可能性を感じる」とコメントを発表している。

【慈善活動】
ジャクソンは生涯を通じて、世界各地で子どもたちのための慈善活動を行ってきた。
1980年代半ば頃から右腕にしている姿がよく見られた腕章は、世界中の子供達を救う
決意を表しているものだという。

1984年5月、飲酒運転防止キャンペーンに協力した功績を讃えられ、当時の大統領ロ
ナルド・レーガンより感謝状が贈呈される。

1992年には、世界中の不幸な子ども達の為「ヒール・ザ・ワールド基金」を設立し、
世界ツアーの一つである「DANGEROUS TOUR」の収益、推定26億円を全額寄付した。11
月、ボスニアの子どもたちにおもちゃや文具が詰まったギフトボックス3万個がクリ
スマスプレゼントとして届けられたほか、小児病院や子どもたちを支援する団体にも
総額11万ドルに及ぶ寄付を行っている。翌年の虐待疑惑などの影響で活動に支障が出
たともいわれる。

1993年、ロスで薬物乱用から若者を救う運動に着手。自身も鎮痛剤の中毒に苦しんだ
時期がある。1993年、スーパーボウルのハーフタイムショーに無報酬で出演。世界
100カ国で放送、各地の軍関係者にも観てもらえるということで出演を承諾、様々な
国の異人種の子供達が手を取り合うという演出でウィ・アー・ザ・ワールドやヒー
ル・ザ・ワールド等のパフォーマンスを行った[33]。

モスクワ、アルゼンチン、グルジアに医療物資として救急車やワクチンを供給するた
めの活動を行っていた。

生涯でチャリティに寄付した額は明らかになっている分だけで3億ドルにのぼる
[34]。

遊戯施設が併設されている自宅ネバーランドに孤児院の子供や重篤な病に苦しむ子供
達と支援団体、地元の子供達等を招待し、全ての施設を無償で開放していた。

1999年、阪神淡路大震災で被災した小中学生へのチャリティ・ソングとして、
TOKIO・KinKi Kids・V6で結成したJ-FRIENDSに、楽曲People Of The Worldを提供し
た[35]。

ワールドツアー等で世界の国々を訪れる度によく病院や孤児院などの施設を慰問して
いた。ワールドツアーに携わったケニー・オルテガはルーマニアの孤児院を訪れた
際、マイケルはその劣悪な環境を危惧し、「明日までに環境を改善し人員を増やさな
いとステージに立たない」と言い、24時間で孤児院の環境を改善させたとMTVの番組
「Human Nature」で語った。

「最も多くの慈善団体(39団体)をサポートしたポップスター」として2000年のギネ
スブックに載っている[36]。

2001年3月には英オックスフォード大学より「世界共通の児童権利法案を提唱する」
ための講演を行った[37]。

2003年、狼瘡(ろうそう)患者支援団体および研究機関へのチャリティーイベントに
出席。

2度ノーベル平和賞にノミネートされており[38]、死後には2010年のノーベル平和賞
を授与することを求める署名運動が起こった[39]。


■2011年5月22日時点で、マイケルの子供たち3人は、プリンス( 14歳) パリス
(13歳) ブランケット(9歳)です。
■最も多くの慈善団体(39団体)をサポートしたポップスターとしてのマイケルが大
好きです。
■遺産の40%はマイケルの母であるキャサリン・ジャクソンに、残りの40%はマイケ
ルの3人の子供達に、
20%はチャリティ分与されることがわかった。チャリティに20%で、父親には一切遺
産が残されていない!のがポイントです。
■彼は本当に一生涯「子供」だったのでは無いかと思います。
■ちょうど80年代のディスコブームでは彼の曲に本当に御世話になりました!!御
冥福をお祈り申し上げます。