★英国王位継承順位13位のザラが英国スターラグビー選手と結婚【喜伝会おすすめニュース】 | 酒田移住日報

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25回目の移住で、山形県酒田市にやってきました!父の介護をしながら、酒田のオススメをご紹介します(^^♪

英王室のエリザベス女王(Queen Elizabeth II)の孫にあたるザラ・フィリップス(Zara Phillips)さんと、ラグビーの英国スター選手マイク・ティンダル(Mike Tindall)氏が30日、英スコットランド・エディンバラ(Edinburgh)のキャノンゲート教会(Cannongate Kirk)で結婚式を挙げたらしい。



まずは、「ザラ・フィリップス」をWikiで調べてみよう。



【ザラ・アン・エリザベス・フィリップス MBE(Zara Anne Elizabeth Phillips、1981年5月15日 - )】は、イギリス王女アンの第2子で、エリザベス2世の孫。父はマーク・フィリップス陸軍大尉。兄にピーター・フィリップスがいる。現在、イギリス王位継承順位13位。貴族称号は有しない。



【人物】ロンドン市内パディントンの病院で、アン王女とマーク・フィリップスの間に誕生した。エリザベス女王とエディンバラ公フィリップの初の孫娘であった。



英国王室メンバーも学んだ北部スコットランドの名門寄宿学校ゴードンストウン校で学ぶ。



イギリスを代表する総合馬術の選手であり、2006年にはヨーロッパ総合馬術選手権で個人優勝を果たし、同年12月にはBBCの最優秀スポーツ選手賞に選出された。これを受け、大英帝国勲章が授与された。



アテネ五輪及び北京五輪に出場する予定であったが、いずれも愛馬の負傷により参加を断念した[1]。



2010年12月21日に、イングランドのラグビー選手マイク・ティンダルとの婚約が発表され[2]、2011年7月30日にエディンバラのキャノンゲート教会で結婚式を挙げた[3]。





せかっくなので、「エリザベス女王」をWikiで調べてみよう。



【エリザベス2世(英語: Elizabeth II、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー、英語: Elizabeth Alexandra Mary、1926年4月21日 - )】は、イギリス連邦王国16カ国の女王(在位:1952年2月6日 - )、イギリス連邦の元首。イギリス国教会の首長。



イギリス連邦王国16カ国の女王として、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国(イギリス)女王、カナダ女王、オーストラリア女王、ニュージーランド女王、ジャマイカ女王、バルバドス女王、バハマ女王、グレナダ女王、パプアニューギニア女王、ソロモン諸島女王、ツバル女王、セントルシア女王、セントビンセント・グレナディーン女王、ベリーズ女王、アンティグア・バーブーダ女王、セントクリストファー・ネイビス女王を兼ねる[1]。



ジョージ6世と王妃エリザベスの長女。夫(王配)はエディンバラ公爵フィリップ。ただしフィリップは共同君主・共同統治者ではない。2007年12月20日に父方の高祖母たるヴィクトリア女王を抜いてイギリス史上最高齢の君主となった。



【生い立ち】

1929年のエリザベス王女1926年4月21日午前2時40分に、ロンドンのメイフェアにおいて連合王国国王ジョージ5世の次男ヨーク公アルバート(後のジョージ6世)と妃エリザベスとの間に第1子として、帝王切開によって生まれる。同年5月29日に、バッキンガム宮殿内のプライベート・チャペルで、ヨーク大主教のコズモ・ラングによって洗礼が施された。名前はそれぞれ母エリザベスと曽祖母アレクサンドラ、祖母メアリーに因んで命名され、家族からは“リリベット” の愛称で呼ばれていた。ジョージ5世はエリザベスを溺愛しており、1929年に大病を患った際も、彼女が定期的に見舞いに訪れたことは、ジョージ5世の回復を早めるのに一役買ったと言われている。



4歳の時に、妹マーガレットが誕生した。当時は、結婚を保証されている上流階級の娘達には教育は不必要という時代であったが、祖母メアリー王妃の方針によって、姉妹揃って家庭教師マリオン・クロフォードから、宮廷において教育を施された。クロフォードが後に記した伝記によると、この頃から動物好きの傾向が見受けられ、規律正しく責任感の強い性格だったと言われている。またウィンストン・チャーチルも当時2歳だったエリザベスに接して「子供ながら驚くほど威厳と沈思のある態度だった」と回想している。



【王女時代】

7歳頃のエリザベス王女(ラースロー画)出生時においては、伯父の王太子エドワード、父に次いで第3位王位継承者であったが、当時独身のエドワードおよびその子供への王位継承が期待されており、彼女の即位を予想する者はいなかった。



しかし、1936年1月のジョージ5世の死去を受けて即位したエドワード8世が、イギリスと対立しつつあった枢軸国に親近感があるような態度をとった上、離婚経験のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚をほのめかしたことを受けて、スタンリー・ボールドウィン首相らに退位を迫られ、同年12月に退位してしまった(「王冠を賭けた恋」として知られる)。



そして、エドワード8世の弟でエリザベスの父であるヨーク公が即位して「ジョージ6世」となる。これを受けてエリザベスは一家とともにバッキンガム宮殿に移住し、王位の推定相続人となる。



以降は、特に帝王学・法律・歴史・フランス語を中心に勉強した。一方、ガールスカウトなどに参加し、同年代の子供とも積極的に関わっていた。このように、王位継承者として息つく暇も無い日々を送り、たまの休日に田舎道を馬に乗って走ることが唯一の楽しみといった生活を送り続けていたことから、側近には「デイヴィッド(エドワード8世)伯父様が退位しなければ、田舎で馬や犬に囲まれて過ごせていたはずなのにね」とこぼすこともあったという。



1939年には、カナダ政府から両親の外遊に同行するよう打診されるも、父王が年齢の幼さと1ヶ月という期間の長さを理由に拒否し実現しなかった。



同年7月に、ダートマス海軍兵学校で将来の夫となるギリシャおよびデンマーク王子フィリッポス(フィリップ)と出会い、一目惚れし、以降文通を始めることとなる。



【第二次世界大戦中】

1939年、祖母メアリー王太后、妹マーガレット王女とエリザベス王女1939年9月の第二次世界大戦勃発と、その後のドイツ軍によるフランスやベルギーへの侵攻に伴い、エリザベスは妹マーガレットと共に、1940年5月にウィンザー城へ疎開した。その直後のドイツ空軍機によるイギリス本土への空襲の激化(バトル・オブ・ブリテン)後には、ドイツ軍によるイギリス本土上陸も危惧されたことから、政府によって姉妹を安全なカナダへ疎開させることが提案されたものの、母エリザベスが「私の子供たちは私のもとを離れません。また、私は国王陛下のもとを離れません。そして、国王陛下はロンドンをお離れになりません」と述べて、これを拒否した。ウィンザー城滞在時には、クリスマスに家族や友人たちを招待して、王室職員の子女たちとともに、パントマイムを上演したこともあった。



この際、BBCを通じて初めて演説を行ない、以後王位継承者として少しずつ公務に携わっていく。当初は、看護師となることを志望したものの、父王の反対にあったことから実現しなかったが、その代わりとして、1942年に近衛歩兵第一連隊の名誉連隊長となり、大戦中も国民と共に後方支援にあたった。各地への訪問・激励の他、1945年には女子国防軍に入隊し、「エリザベス・ウインザー」の名で軍用車両の整備や弾薬管理などに従事した以外にも、大型自動車の免許を取得し、軍用トラックの運転なども行った。



それまでの女性王族は、軍などにおいて肩書きが与えられたとしても、名誉職としての地位に過ぎないというケースが慣例だったが、イギリス本土への上陸の危機という事態を受けて、エリザベスはその慣習を打ち破り、他の学生たちと同等の訓練を受け、軍務に従事する初めてのケースとなった。エリザベスは、一般の兵士とまったく同じ待遇をされることを非常に喜び、これらの経験をもとに、自分の子供たちも宮廷で学ばせるより、一般の子女たちと同じ学校に通わせることを決意したという。ヨーロッパ戦勝記念日の際は、妹と共に一般市民に混じって、真夜中まで喜びを分かち合ったという。



【大戦後】第二次世界大戦におけるイギリスの勝利後の1947年4月には、両親と共に初めての外遊として南アフリカを訪問し、ケープタウンで誕生日を迎えた際には、ラジオ演説を通じて「全生涯をイギリス連邦の為に捧げる決意である」と表明した。



同年11月にウェストミンスター寺院で、かねてから交際を続けていたフィリップ王子と結婚した。結婚後の数ヶ月間を当時英国領だったマルタで過ごした。その後フィリップとの間には、チャールズ王太子ら4人の子に恵まれた。



【女王時代】

戴冠時の女王夫妻生来病弱であった父ジョージ6世の健康状態は1951年に入り悪化し、翌1952年2月6日未明、療養を兼ねて狩猟やスポーツを楽しむ為に訪れていたノーフォークのサンドリンガム御用邸で、就寝中に冠状動脈血栓症により死去した(エリザベスは、オーストラリアとニュージーランド公式訪問の途上、ケニア滞在中であった)。これを受けエリザベスは即位して女王「エリザベス2世」となり、同名の母エリザベスは「エリザベス王太后」となる。



翌1953年6月2日にはウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、この模様はイギリス連邦内だけでなく世界各国に当時の最新メディアであるテレビにより中継された。



以来半世紀以上に渡ってイギリス女王の座にあり、「国民に親しまれる王室」を目指し、即位後は積極的にイギリス連邦諸国のみならず日本やアメリカ、フランスなどの諸外国を訪問するほか、私生活をテレビで放送するなど新しい試みを行った。その一方で超然たる一面を持ち、マーガレット・サッチャー首相が「女王と服装を合わせたい」と希望した際には「臣下の服装に興味はありません」と一蹴したという。



日本へは1975年(昭和50年)に1度だけ訪問している。5月7日に特別機で羽田空港に到着、その夜は東京都港区赤坂にある迎賓館で昭和天皇主催の晩餐会に出席した。翌5月8日にはNHKを訪問し大河ドラマ『元禄太平記』の収録を見学、5月9日には帝国ホテルから国立劇場までの約2kmをオープンカーに乗りパレードしている。5月10日には飛行機で関西へ移動し京都御所などを見学し、翌5月11日には三重県伊勢市の伊勢神宮や三重県鳥羽市の御木本真珠島を訪問。この日は鳥羽国際ホテルに宿泊した。5月12日に名古屋を経由して東海道新幹線で東京に戻りそのまま羽田空港より離日した[2]。



2006年に80歳を迎えたが、現在も精力的に公務を行っている。2007年5月、英国植民地設立400周年を記念してアメリカを訪問した。同年11月19日には結婚60周年を祝う祝賀行事が催された。イギリスの君主で結婚60周年を迎えるのは、エリザベスが史上初である。翌日からは新婚時代を過ごしたマルタを訪問したが、1泊した後、イギリス連邦首脳会議のためウガンダへ出発した。



2010年、ウィンブルドン選手権4日目(6月24日)には、1977年以来33年ぶりに、大会を観戦した[3]。



2010年12月29日、ピーター・フィリップスに女児が誕生し、曾祖母となった。



1911年のジョージ5世以来100年ぶりに2011年5月17日アイルランドをイギリスの君主として公式訪問している[4]。1911年当時はイギリスの植民地であったため独立後としては初の訪問である。



近年は、息子たちの離婚・再婚問題や孫ヘンリー王子のスキャンダルなどに苦悩が絶えない。一方でそんな女王の人気はイギリス国内でも高く、国民も退位を望まず「最後まで女王でいて欲しい」などの声も大きい。



【称号】

紋章入りの旗

紋章入りのカナダの旗エリザベス2世はイギリスを含め16の国家の女王・元首であり、それぞれの国で異なる正式称号を持っている。イギリスにおける正式称号は以下のものである。



Her Majesty Elizabeth the Second, By the Grace of God of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her Other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith

直訳『神の恩寵による、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国ならびにその他の諸王国および諸領土の女王、イギリス連邦の元首、信仰の擁護者、エリザベス2世陛下』

「信仰の擁護者」は、元来はマルティン・ルターに反対したヘンリー8世に対し、ローマ教皇レオ10世から与えられた称号である。1534年の国王至上法によりイングランド国教会首長の称号となった。



【論点】このため、法的に厳密に考えると、相互に反対の意見を持っている国の元首としての顔を持つことになる。たとえば2003年に勃発したイラク戦争では、同戦争に賛成したイギリスやオーストラリアなどの元首という立場を持つ一方で、同戦争に反対したカナダの元首として行動することもできる。



実際にイギリス以外の国の元首として行動することもある。特にその国に滞在している場合、たとえばカナダ滞在中はカナダ女王として、オーストラリア滞在中はオーストラリア女王として、パプアニューギニア滞在中はパプアニューギニア女王として行動する。



【称号の推移】1926年4月21日 - 1936年12月11日

エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下(Her Royal Highness Princess Elizabeth of York)

1936年12月11日 - 1947年11月20日

エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth)

1947年11月20日 - 1952年2月6日

エジンバラ公爵夫人エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)

1952年2月6日 -

女王陛下(Her Majesty The Queen)



【人物】

■女王と競馬

騎乗するエリザベス2世。左はアメリカのロナルド・レーガン大統領近代競馬発祥の地であるイギリスにおいては、競馬を庇護・発展させる君主がしばしば現れている。エリザベス2世も競馬の熱心なパトロンであり、馬主・生産者として大きな成功を収めている[5]。両親の名を冠したキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの優勝馬オリオールのほか、4頭のクラシック競走優勝馬など、所有馬には数々のステークス優勝馬がいる(詳細)。1954年と1957年にはイギリスのリーディングオーナー(所有馬の獲得賞金額首位)となった。在位中にこのタイトルを複数回獲得した君主は史上にエリザベス2世のみである[6]。所有馬に騎乗する騎手が着用する勝負服は、紫色の胴部に金ボタンと刺繍をあしらい、袖色は赤。帽子は黒のベルベット地、頭頂部に金モールをあしらったのものを使用している。



王室が開催するロイヤルアスコット開催時には、毎年宮殿から馬車でアスコット競馬場へ向かうのが慣例である。ロイヤルアスコット開催のレースにおける優勝馬の関係者は、エリザベス2世などが出席するイギリス王室主催の茶会に招かれる。



イギリスの「クイーンエリザベス2世ステークス」、アメリカ合衆国の「クイーンエリザベス2世チャレンジカップステークス」、日本の「エリザベス女王杯」、イギリスの植民地であった香港の「クイーンエリザベス2世カップ」など、エリザベス2世の名を冠した競走が世界各地に存在している。



■主な所有馬

Aureole(オリオール) - ジョージ6世が生産し、1954年キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、コロネーションカップなどに優勝。種牡馬としても1960年、1961年にイギリスの首位種牡馬となる。

Carrozza(カロッツァ)- 1957年オークスに優勝。馬主としてクラシック競走初優勝。

Almeria(アルメリア)- 1957年ヨークシャーオークスなどに優勝。

Above Suspicion(アバーヴサスピション)- 1959年セントジェームズパレスステークスに優勝。

Pall Mall (ポールモール)- 1958年2000ギニーに優勝。

Canisbay(キャニスベイ) - 1965年エクリプスステークスに優勝。

Hopefull Venture(ホープフルヴェンチャー)- 1968年サンクルー大賞などに優勝。オリオールの子。

Highclere(ハイクレア)- 1974年1000ギニー、ディアヌ賞(フランスオークス)に優勝。日本ではディープインパクトの曽祖母として知られる。

Height of Fashion(ハイトオブファッション)- ハイクレアの子。1981-1982年に3つの重賞競走に勝利。ナシュワン、ネイエフなどの母。

Dunfermline(ダンファームライン) - 1977年オークス、セントレジャーステークスに優勝。後者でアレッジドを破る。



■逸話

公用車のベントレー・ステートリムジン執務の一環として、老若男女あらゆる階級から届けられた中で厳選された手紙を読む。内容は主に女王に対する願い事。また最近では電子メールにも目を通している。

即位50周年記念に、イギリスの自動車製造者協会からベントレー・ステートリムジンが公用車として進呈された。

愛犬家であり、少女時代に父王ジョージ6世が遊び相手として与えたことから、現在もウェルシュ・コーギー・ペンブロークを飼っている。その他にレトリーバーも飼っている。国内旅行時には、可能な限り愛犬達を同伴する。

コーギーを飼っていた日本人が出した手紙に女王の名代で返事の手紙が来たことがある。

「クイーン・エリザベス」というバラが即位の年に出された。在位50年の記念の年には「ジュビリー・セレブレーション」というバラが贈られている。

若い頃に熱中したことがきっかけでクロスワードパズルを解く事が趣味。毎朝目を通す新聞(サン紙などのタブロイドも含む)に掲載されているクロスワードを空き時間などに解く。

孫・ウィリアム王子が恋人キャサリン・ミドルトンからクリスマスプレゼントとして贈られたWiiを気に入っており、『Wii Sports』のボウリングでは85歳には思えない実力を披露したと言われる[7][8]。

1975年に訪日した際、名古屋駅から東京駅まで東海道新幹線・ひかり号に乗車。発車時は大雨の影響で2分遅れていたが、運転士がATC速度ぎりぎりで走行し、東京に定時に到着したため「新幹線は時計より正確」と話したと言われる。[9]



【イギリス王室】

エリザベス2世

エディンバラ公爵フィリップ

・ウェールズ公チャールズ

  コーンウォール公爵夫人カミラ

  ・ケンブリッジ公爵ウィリアム王子

    ケンブリッジ公爵夫人キャサリン

  ・ヘンリー王子

・ヨーク公爵アンドルー

  ・ベアトリス王女

  ・ユージェニー王女

・ウェセックス伯爵エドワード

  ウェセックス伯爵夫人ソフィー

  ・セヴァーン子爵ジェームズ

  ・レディ・ルイーズ・ウィンザー

・アン王女(プリンセス・ロイヤル)

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・グロスター公爵リチャード

  グロスター公爵夫人ビアギッテ

・ケント公爵エドワード

  ケント公爵夫人キャサリン

  ・マイケル王子

    マイケル王子妃マリー=クリスティーヌ

・アレクサンドラ王女



【王子女】

フィリップとの間には3男1女がいる。

■チャールズ王子(1948年 - ) - 王太子(ウェールズ公)

■アン王女(1950年 - ) - プリンセス・ロイヤル

■アンドルー王子(1960年 - ) - ヨーク公爵

■エドワード王子(1964年 - ) - ウェセックス伯爵





★今年の英国はWeddingラッシュで、喜ばしいね!!

★妃エリザベスとの間に第1子として、帝王切開によって生まれ、看護師となることを志望していたとは、知らなかった!

★日本へは1975年(昭和50年)に1度だけ訪問しているとは!

★それにしても、イギリスを含め16の国家の女王・元首だと知っている人はどれだけいるのだろう?

★コーギーを飼っていた日本人が出した手紙に女王の名代で返事の手紙が来たことがあるんだって!!

★任天堂Wiiを気に入っているなんて、嬉しいね!

★ディープインパクトの曽祖母も所有!!