恩師とのお別れは、昨年11月......91歳でした。
美代先生には、私が小2から中学までクラシックピアノの指導をして頂きその後、娘さんの宮本麻理先生に音大まで導いて頂きました。
私は4歳〜ピアノを始めて、それまで姉がKAWAIのオルガン教室で習っていた頃によくレッスンについていき、ある時ピアノに変わった時のタイミングで私も‼️と習い始めました。
それから4年後、母が「町田に素晴らしいピアノの先生がいる。」
と聞いて、強い想いで美代先生のピアノ教室の門をたたいたのだと思います。
なぜなら、
私が赤ちゃんの頃に脱臼をして「20歳頃に再発したら、もしかしたら足が不自由になるかもしれない!」と、お医者様に宣告を受けて
『この子に手に職をつけさせなきゃ。』と思ったと、私が音大に入り20歳過ぎた頃に 母から 打ち明けられたのです。
何も知らない私は、音大入学した事が自分にとっての最大の達成感でそれまでスポーツなどやりたい事をあまりやらせてもらえなかった反動もあり、音大の親友にスキーを誘われ、一緒に行ったりしていました。そんな時、母は『足が大丈夫かしら?』と1人で気が気じゃなかったみたいです。(何も知らず心配かけて、ごめんなさい!!!)
その手に職を......という想いが強かったから子供の頃、母は音楽のことは何も知らないので内容に関しては、一切触れず(それは唯一の救いだったかと。)とにかく練習に対しては厳しく、いつも「練習しなさい!練習しなさい!」と叱られていました。
友達が学校から帰って遊びに行くのに、私は先ずはピアノの練習をしないと遊びには行かせてもらえず😂とても辛い時もたくさんありました。
美代先生のレッスンはとても厳しく、あの時代は手を叩かれたり(今の時代は考えられませんが。)とにかく、言葉ではもちろんのこと、身体で覚えさせられ 毎回レッスンのたびに泣いていたのを覚えています。
そんな厳しいレッスンの事を、母に何言っても聞いてはもらえず とにかくひたすら、あの頃は耐えていました。
きっと、母は美代先生を信じて 美代先生の指導についていこうと心に決めていたんだと思います。
そんな母に対して今思うと改めて頭が下がるのは、ピアノへの送り迎えです。
我が家からピアノ教室の御宅まで、車で15分程を行ったり来たり。夕飯の支度をする時間帯に 父が仕事から疲れて帰ってきて、育ち盛りの6歳下の弟がいたので その夕飯の支度もしながらの車の送り迎えは、かなり...かなり大変だったのでは?と想像します。
それも私の足の負担を考えて、自分が足代わりになろうとしてくれていたのです。
メモリアルコンサートへの出演を麻理先生からメールでご連絡頂いた時は、クラシックの名曲のプログラムの中で、私はジャズやオリジナルetc(スタイルとしては、クラシックからは離れているので。) すこし、場違いなのでは?バランスがどうなのかな?など
色々な事を考えながら、暫く悩みました。
でも今回の趣旨は、美代先生へのメモリアルコンサートでの追悼を込めたものなので、美代先生から厳しいレッスンの中で、ピアノ奏法の基礎をとことんやり直してくれて、とても大切な事をたくさん与えてくださった感謝を込めて......その想いを届けようと、出演させて頂きました。
私に音楽を与えてくれた母に捧げた(一昨年、他界)オリジナル曲『母への想い』を、そして昨年の私の1/24バースデーライブで自分の節目であり、その時に演奏した『caravan』をアレンジして演奏しました。
音楽は、色々な想いを掻き立て想い出させてくれる、本当に不思議なパワーをもっているなぁとつくづく感じます✨
コンサートの後のお茶会で、ご家族や親戚の方から美代先生の人生の音楽との関わり方を聞く事ができ また新たな尊敬の想いが芽生えました。
美代先生。
天国で安らかに......
これからも皆の音楽を聴きながら、ずっとずっと見守っていてください。
心からの感謝を込めて......✨