STEP.1上染谷八幡神社 不動堂阿弥陀如来像 分身還座事業 始動

 

コロナの影響で2年間計画がとん挫していましたが、令和4年度は標記事業を進めていきます。

 

まずは4月12日、東京都府中市の上染谷八幡神社所蔵の阿弥陀如来立像をお借りし、鋳物で有名な富山県高岡市に運び、3Dスキャンしていただきました。

 

この計画の歴史的背景をご説明しますと、以下の通りです。

【八幡荘・八幡宮】

武家の棟梁といわれる河内源氏の初代 源頼信公が天徳元年(957)、上野介任官中に摂関家領として立券した八幡荘(現在の群馬県高崎市)に石清水八幡宮を勧請した(八幡)八幡宮があります。この八幡宮は一国一社の八幡宮とされ、永承年間、子と孫の源頼義公・義家公が奥州征伐の際、戦勝を祈願し、社殿を改修されております。

その後、東山道・鎌倉街道など交通の要衝で、河内源氏重代の重要拠点である八幡宮を含む八幡荘は義国公、義重公(新田氏初代)へと相続されました。

 

【新田義貞公鎌倉攻め】

元弘3年(1333)5月、生品神社(旧新田町)で鎌倉幕府倒幕の兵をあげた新田義貞公は、そのまま利根川を南下せず、この八幡宮に向かいます。理由は①甲斐信濃、越後の里見一族の援軍と合流するため、②武家の棟梁である先祖が勧請した八幡宮で、運気を最高潮にあげるためなどです。

新田軍の里見伊賀五郎義胤公が八幡宮より本地仏である善光寺式阿弥陀如来を守り本尊として奉じ、軍を進めました。途中府中での合戦で苦戦を強いられましたが、勝利し、凱旋時府中に阿弥陀如来を安置したとのことです。

 

【その後】

元弘3年(1333)から今日に至るまで阿弥陀様は府中の方々に慕われ、戦前は国宝、現在は重要文化財と大切にされております。(ちなみに、この阿弥陀様を所蔵する上染谷八幡神社は元弘3年上野国碓氷の八幡宮より遷座、正平11年(1356)武蔵守新田義宗公社殿再建と伝わります。)そんななか、(八幡)八幡宮の竹林宮司とお話させていただいたところ、阿弥陀様を祀っていた厨子があるとのこと。見せていただいたところ、立派な厨子で、全国里見一族交流会としても、先祖顕彰の意味も込めて、もともとあった八幡宮のこの厨子に奉納できればと考えた次第です。

当然ながら、いま重要文化財として府中にある阿弥陀様をお連れするわけにはいきません。府中の阿弥陀様を複製し、分身を製作し、魂入れをし、再び高崎の地に還座(帰ってくること)していただこうと考えたわけです。

本事業の趣旨を上染谷八幡神社の氏子・馬場様をはじめとする役員の皆様にご説明・ご相談させていただき、ご了解を得て、本事業は動き始めました。