榛名町で2番目に多い姓です。名物の里見梨を始めた家と言われています。里見系図では東毛の牛沢から別れた中沢の一族が富沢を称して吾妻から榛名の里見氏との縁で里見氏の武将として十代300年間活躍した家柄です。戦国時代には武田勢に箕輪城が落とされた時、長野業盛自刃の際 殉死した富沢重郎兵衛が見られます。長野氏滅亡後は帰農し、一族からは名主、村長、県議会議長等を排出しています。家紋は丸に三柏、丸に桐、蔦等(上州の名字と家紋・萩原 進編)より

長野業政の供養塔    業政の奥方の墓この井戸の近くで業盛とともに自刃しました。