高崎市寺尾の永福寺内に源義重(通称 新田義重)の墓と言われている墓があります。永福寺は義重が拠点とした寺尾城内にあります。新田義重の血筋は源義家(八幡太郎義家)の子 源義国の嫡子です。弟が足利義康で足利氏の先祖です。新田義重の長男が里見義俊(大新田義俊)です。義俊の長男が義成で頼朝に目を掛けられて新潟方面に領地をいただき子孫が繁栄し、1333年の鎌倉攻めの時 越後の里見一族が2000騎あまりで八幡八幡宮に集結しています。

里見義成の妻は足利義康の長男 足利義清の娘です。新田一族の中では岩松氏よりも早く 新田、足利の結びつきを強固にした結婚だったと私は思っています。

義重は三寺尾城(高崎地域)を中心に前後を八幡、里見地域を里見義俊に山名地域山名義範に城を構えさせています。東毛の新田方面はその名の通り父義国と義重が新田開発(開墾では無く浅間、榛名の火山灰で荒れ果てた土地を元に戻した) その新田を子供達に分け与えました。東毛と西毛の両地域の与えられたのは里見義俊だけです。大新田と言われる所以です。義俊は正妻の子ではありませんが「大新田 庶宗家」として義重の主要な地域を受け継いでいます。東毛の新田方面が重視されがちですが、本拠地(出発点)は高崎地域です。源頼朝や源義重、源義仲が平家打倒の宣旨を受けた時、新田義重は高崎の寺尾で旗揚げをしましたが、肝心の里見義成、山名義範は源頼朝方に参加したそうです。当時の里見義成、山名義範は在地よりも京都にいたので情報が得やすかったようです。