私はすごーく!

『人混み』が疲れる。


『会話』のない、広がらない人も疲れる。


『極端』な人も疲れる。



なんでだろう?

を考えていた。



スバり、しらぬ間に『気を遣っている』w


自分の周りに『安心』がないと

喜怒哀楽が出せない。


小さいときから

喜怒哀楽に蓋をしてきたから尚、

今でも『クール』と表現されます。



メンタルが強いとか、

強い人とか

冷めた人とか

冷たい人


そんな表現もあります。


小さいときに

この喜怒哀楽に蓋をしたのは


喜怒哀楽を出すことで

結果的に相手に悲しい思いをさせてしまう場合があるから


純粋な幼いこどもにとって

それが恐ろしく怖いことだったのだと思います。



それだけ、

周りの表情や、その人のその後の表情を想像する力が高かったのだと今ではそう、思います。


このことばを発したあとの、それを耳にした人がどんな気持ちになるのかを

先回りして、食い止めるために

蓋をする、嘘をつく


客観的にみれば、

嘘をつく行為は決していいことではないものの、幼いこどもにとってはそれが最善で、それ以外の策が見あたらない。



平気じゃないのに『大丈夫だよ』

と発したり

悲しいのに悲しいと言えず陰でひそかに泣いていたり

寂しいのに『笑って』過ごしていたり

困っているのに『何事もないように』平気な顔で過ごしたり



経験がものを言う、というように

その経験が今では『活きている』そうも感じます。



でも、世の中には

苦しい過去があっても人を愚弄する人もいる。

1を聞いて『いいか、悪いか』のジャッチをする人もいる。

極端な思考の持ち主もたくさんいます。


『人混み』というのは

そういう、さまざまなジャンルの方々が

そこにギュッと集まっている。


無意識に『気を遣っている』から

争いが起きぬか

幼い子が親御さんと離れてしまってはいぬか

困っている人はいぬか、大丈夫か


そんなことが『気がかり』になってしまい

安心して歩けない。


そんなところだ。



自分と同じ感覚の持ち主と

歩いているならば多少は

その『気を遣う』に使うエネルギー分散されるから安心して歩ける



そんな風に感じる。


だから、どこかに一緒に遊びにいく人は

自分と感覚が似ている人と、と思う。


笑い合い、無邪気に楽しめて

周りに気を遣え、自分を律し、周囲との調和を図ろうとできる人

無意味な謙遜もなく、人に気を遣わせない人

精神的な自立のある人

それでいて無邪気で挑戦意欲や、遊び心を大切にしている人。


『変わる』『変化』することを

違和感なく取り入れることができる人


そんな人と一緒にいたら

自分にとってもプラスでしかない。