先日、Akira Mizubayashiの小説、Âme brisée(邦題:壊れた魂)を読んで、物語に感動したと同時に、日本で生まれ育ち、フランスに留学こそすれ、生涯を日本に在住しながらもフランス語で何冊も本を出しているこの水林章さんがとっても気になるようになりました。

 

現在72歳の水林章さんは、肩書で言えばフランス語およびフランス文学の大学教授。ご本人の著から理解するところ、18世紀のフランス語およびフランス文学が好きで、ジャンジャックルソーについては相当入れ込んで研究をされているよう。

 

彼がフランス語で書いたÂme briséeに感動し、彼が書いた日本語の本も読んでみたい、と思って見つけた、昨年出版された「日本語に生まれること、フランス語を生きること、来るべき市民の社会とその言語をめぐって」という本を、どうにか読みました。

 

本当、どうにか読んだ、という言葉がふさわしいほどに、私には難解だった。。。私は何を期待していたのかわかりませんが、日本語に生まれて、フランス語を生きている著者の、もう少し言語の習得に焦点を当てたような話を期待していたのかもしれません。

 

期待とは少し違ったし、消化するにも時間はかかりそうだし、難解でどうにか読み終えたこの本ですが、結論、読んで良かった。なので、消化もしないで忘れてしまう前に、落とし込める自信は無いものの、少しブログに残しておくとします。

 

まずはしょっぱなからの、安倍政権、および安倍晋三的なるもの=自民党的なるものへの批判から始まります。そしてその腐敗っぷりと、腐敗に対して何も感じない日本人たちの様子は2011年のフクシマ以降特に顕著だ、と。その後出てきた日本国憲法改正草案では、基本的人権の尊重が軽んじられ、この後に及んで「天皇を戴く国家」とその思想の子孫継承することに価値がおかれている、と。

 

ここで「天皇を戴く国家」の戴く(いただく)という漢字、読めませんでした。。。何となく読み進めたけど何度も何度も、結局最後まで出て来ることになったので、途中で調べました。雪を戴いた富士山という言い方ありますねー。頭にのせると言う意味と、目上の方を敬うという見があるそうです。ヴェルサイユ宮殿にもどうとうと飾られていた、ナポレオンの戴冠式(たいかんしき)の絵。今更ながらいに、あー、なるほど戴冠式かー、と納得した私。。。お恥ずかしい。

 

話がそれました。

 

そして、この本の主題は、この、天皇を戴く、という思想が日本語という言語の根底に脈々と流れている。日本言語というのは天皇制の言語なのだ、という話です。

 

ちょっとわからないでしょ?この本の中でそのことが一番シンプルに説明されていると思った表現は、日本語というのは「言語の元で市民が平等ではない」ということ。そして本当の意味で独立した個人が存在しない言語。本来、社会とは独立した市民が集まって社会になるけど、日本には市民も社会も西洋的近代国家の意味で言えば存在していないって。

 

言語の元で平等ではない、っていうのはたとえを使えば一目瞭然です。

 

例えば、これは時計です。と言った時に、目上の方には、これは時計です、こちらは時計でございます、となり、家族には、これが時計だよ、とかほら、時計、などと自分と相手の関係性によって瞬時に変わりますよね。そして、私という一人称も、本当の意味では“一人”称ではなくて、瞬時に相手である二人称の立場によって変化してします。状況依存の高い言語だと。

 

私は私ではなく、天皇に対しては臣下であり、父に対しては息子であり、妹に対しては兄であり、本当の「私」が疎外されている。

 

また、西洋言語だと、文法というルールは状況に関わらず常に侵されないものであるのに、日本語は文法的性質がかなり希薄で、共同体の中に埋没されてしまう。だから外国人が日本語を学ぶ時にはとにかく実際の例文をとにかく覚えるしかない、というのが彼の文中で引用される、海外で長いこと日本語を教える方々の見解でした。

 

難しいながらも、ああ、なるほど、そのことが日本社会のいろんな場面のいろんな出来事を説明できるなーって、思いながら読み進めましたし、自分が経験したことなんかもいろいろ思い出されました。

 

例えば、こういう言語体系だと必然的に2人称を使う相手によって、自分の身分を“わきまえる”ということが求められますよね。話す言葉に宿るこういう意識はもちろん行動になる。だから日本は、女性らしく、新入社員らしく、母親らしく、男らしく、父親らしく、みたいならしさを強制させる文化なんじゃないかなー。

 

よく思い出すことなんですけど、20代後半の時に日米欧同時でローンチするビジネスのプロジェクトマネージメントをする仕事がありました。日米欧それぞれのチームと週次で進捗確認会議を行っており、その会議にたまに私の部長が出てきます。そして当時の私のオーストラリア人部長が、欧米の現地のダイレクタークラスの人に、ウメが全て把握しているから彼女に何でも聞いて、って言ってくれていたし、あちらのダイレクターたちともジョーク交えながらお互いもちろんファーストネームの呼び捨てで気軽に会議をしていたのに対し、日本のチームとの日本語会議では、あちらの部長が出て来る時には20代小娘の私が発言して良い雰囲気は皆無でした。

 

使う言葉も、部長に対し、課長に対し、年上の同僚に対し、同期に対し、年下の同僚に対し、瞬時に微妙なニュアンスが変わる。そのことが“わきまえる”べき姿も規定しているような気がしてなりません。

 

水林章さんは、フクシマ以降、そんな日本語を使うことに嫌気をさし、日本にいながらフランス語の世界で生きる期間を設けたそうです。その間に積極的にフランス語での執筆活動をしております。フランス語と、フランス語が媒介する社会に内在し、フランス語で本を書くという作業を通じてフランス語を生きる実験をしたのだと。その期間を通じて、より今日の日本社会に対する日本語の影響をより考えるようになったようです。

 

彼が引用していた、バルバラカッサンという哲学者の言葉

「1つの言語を話しているということを自覚すると同時に、自分が話しているのは紛れもなく言語なのだということを自覚するには、少なくとも2つの言語を話す必要があることを私は承知している」

 

さらに引用しているゲーテの言葉

「異邦の言語を1つとして知らぬ者は、自分の言語について何もしらない」

 

私は約20年くらい、私生活でも仕事でも英語をかなりの割合で使う生活をしておりますが、そういう意味で日本語という言語を自覚するほどに英語を生きたことがあるのかな。フランス人の家族がいながら、フランス語的な社会を理解するために、今後もっとフランス語を勉強したいと思っているのかな。

 

消化しきれないくらいの本でしたが、もう少し深めたいテーマでした。

 

文中で特に気になった、以下の本を購入しました。理解できるのかな。

 

福沢諭吉 福翁百話

山下秀雄 日本のことばとこころ

Akira Mizubayashi Une langue venue d'ailleurs