みなさん
こんにちは😃
公式LINEへの登録
ありがとうございます🩵
私のことを
より知ってもらえたら
嬉しいです🎵
私は大人の本格ボイトレをテーマに
学生時代に好きだった歌を
大人になって突き詰めて行きたい!
昔より声が出なくなったけど
大人になって歌唱力を付けて行きたい!
そんな人たちを応援しています
わたし自身は
14才から歌を始め、
音楽高校、音楽大学へ進学し
卒業後は歌手として
CDデビューし、
ピアノ弾き語りシンガーソングライターとして
全国のステージで歌って来ました。
またテレビ、ラジオ、雑誌、新聞などの
メディアにも取り上げていただきました
またボイストレーナーとしては、
メジャーアーティスト、劇団四季、芸能プロダクション、ミュージカルの歌唱指導、音大受験など
プロの指導の他、
趣味で習いたい方が
さまざまなジャンルの歌が
歌えるようになったり
圧倒的な歌唱力を付けたり
自信がついて人生を好転させる
など
これまでに3才から76才までの
のべ2000人以上のレッスンを
やってきました✨
そんな私にも
歌を始めた0の時代があります
周りに馴染めない幼少期
私は三姉妹の末っ子として生まれ
姉とも年が離れ
両親が年を重ね、遅くに生まれました
私は子供の頃から
同調性も、協調性も乏しく
周りを一切気にしない
我が道をゆくタイプでした
そのため
小学校、中学校と周りと馴染めず
浮いていました
(今でも小中学校時代の友達はいません)
学校の授業で先生が
ペアを組んで〜
と言われた時
私ひとり、
誰ともペアを組めずに
ポツンとなる子供でした(笑)
イジメにも合いました
でもいつも強くいられたのは
両親のおかげです
とくに母は私を認め、励まし
勇気づけてくれる人でした
私の人生に大きな影響を与えた人だと
今でも感じます
14才で歌に出会う
中学3年生の時
進路を考えました
音楽は大好きで
専門的に本格的に音楽を学びたくて
音楽高校への進学を決めました!
本当は子供の頃にやっていた
ピアノをやりたかったけど
ピアノレッスンを辞めてからの
数年間のブランクがあることで
歌で進学することを
すすめられました
歌が何かもよくわからないまま
【声楽科】への進学
人生で初めて歌と出会いました
ずっと悩んだこと
声楽科への進学を決めた時から
私のボーカル人生が始まりました
歌は楽しい
やればやるほど歌唱力がつき
出なかった声が出てくる
10代の私は毎日毎日練習しました
歌手になりたい
そう思ったのもその頃からです
ただ、レッスンを受ける中で
気がかりなことがありました
人の心を動かすイイ歌というのは
確実な技術
と
伝える、届ける気持ち
だと私は思います。
当時の私は
伝える気持ちの部分が皆無でした
レッスンの度に
あなたの歌には心がない
ただ歌ってるだけの人
何も伝わるものがない
常に言われました
どんなに答えを求めても
明確な答えを出せず
「理解出来ないあなたが悪い」
と言われるだけ
当時の先生は絶対的な存在
何度も質問することは
許されませんでした
そうかぁ、、、
理解出来ない私が悪いのか、、、
と自分を責めて終わる
いつもこの繰り返しのレッスンでした
高校を卒業して
大学に進学し
習っている先生が変わっても
その状況を変えることは
できませんでした
その内
追求することをやめ
「伝える」という心の部分を
軽視する自分がいました
完璧にテクニックがあり
しっかり声が出せているなら
そんなものはどうでもいい
そう思っていました
この考えは後に自分を苦しめました
共感されない歌手生活
大学を卒業し
ボイストレーナーの仕事に就きながら
歌手としてライブ活動が始まりました
18才で移り住んだ東京
上を見たらキリがないけど
下を見てもそれは同じ
当時
どこで歌っても
人気は出ず
お客さんに配ったアンケートには
声はよく出てると思いました
MCはオモロイです
↑これはまだ良い方 笑
共演者と比べられ
◯◯さんの方が感動しました
◯◯さんを見習うと良いと思いますよ
ひどい時は
何のために歌ってますか?
歌手はやめた方がいいのでは?
などなど
声がしっかり出てるなら
いいじゃない!!
いつも周りを責めて
自分を正当化する日々でした
次第に歌うことが
辛くなっていきました
25才でやってきた転機
25歳の12月、
実家の父から電話がかかります
「お母さんが倒れた
もう助からない」
その電話を受けて
着の身着のまま新幹線に乗り
愛知へ帰りました。
すぐに市民病院へ行き
ICUへ案内され
対面した母を見て愕然としたことを
覚えています
点滴をいっぱいくっ付けて
固まって動かない母
泣き崩れる父を傍目に
私はすごく動揺しました
そして表れたドクターが父に
「奥様は峠は越えたので命は助かります、
ただ命は助かるというだけで
元の体には戻ることはありません」
その意味はよくわかりました。
ただ私がその時感じたことは
お母さんが生きてるだけで良い
でした。
その日
病院からの帰りの車内
父が私に話したことをよく覚えています。
「父さんはね、
お母さんがあんな体になったけど
そんなことはどうだっていいんだよ、
お母さんが生きてるって事実だけで
生きていけるんだよ」
そこから16年間
母は闘病生活を続け、
父はずっと献身的に介護を続けました。
父の言葉は本物でした。
私はその日から3年間
東京と愛知を何度も行き来しながら
がむしゃらにがんばりました。
納得の行かないまま歌手活動をやり
食うためにボイストレーナーをやり
28歳で東京生活に終わりをつげました
大きかった母の存在
今思うと
私は弱みを見せない性格でした
幼少期からいつもポツンだったから
いつの間にか
私のことを気軽に理解されてたまるもんか!
という気持ちが強かったこと
その分
自分のことを100%受け止めてくれた
母には
何もかも話した日々
弱さを見せられる唯一の存在でした
25才で母とは交流が取れなくなり
私は今まで以上に孤独を強め
強い自分にこだわりました
私は強い
完璧である
弱さなどない
今思えば
弱さを見せられる人こそ
真の強さを持ち
弱さを頑なに見せられない私は
弱虫そのものでした
そしてそんな自分が色濃く
歌に表現されていたのだと感じます
31才 メンターに出会い救われたこと
愛知に帰った数年後
私は
運命的な出会いをします
私のライブを見たという
音楽関係者の人と出会い
CDデビューをします
今まで会ったことのない感じ
私をそのまま受け入れてくれるような
でも母とは違う
不思議な安心感を与えてくれる方でした
何度もやり取りをする中で
言われたことがありました
さっちんて(さっちんと呼ばれてます)
すごく話しやすくて面白くて
そして繊細で
弱い部分を
持ち合わせた子だよね、、、
ステージではいつも強そうにしてるけど
なんでその部分を見せないの?
と
え?
えぇ?
えぇえ??
弱さなんて
見せたらいけないことでしょ?!
そして言葉は続きます
人はね
完璧なものや
強いものには惹かれないんだよ
一見強く見える人の
弱い部分に惹かれるのだよ
完璧主義は欠陥品だよ
と
当時の私は
弱さを見せることに
すごく抵抗がありましたが
その方が大好きだから
その方の思いに答えたくて
思い切って
少しずつ
行動を変えました
その結果
CDはバカ売れ
さまざまな
メディアにも取り上げて
いただきました
コンサートは満席
コンサート後に物販では
みんなから
話しかけていただきました
覚えているのが
当時私のCDが
タワレコやHMVに置かれる時
私の視聴機の隣が
ユーミンでした
(視聴機って今もあるのかな??笑)
事前予約で
タワレコ、HMV店内の在庫
全てが売り切れたこと
嬉しい悲鳴を
当時の担当者から
伝えられたこと
懐かしく
良い思い出です🎵
今思うこと
私はいま
ボイストレーナーとして
いろんな人と向き合う日々です
私の40数年の人生で
色々経験したように
みなさんの人生には
さまざまなドラマがあります
私の人生なんて他人に比べたら
大したことありません
そういう人がたまにいますが
他人の人生と比べることは
何も意味もありません
自分には
自分だけの良さがあるのです
そんな思いを歌に表現してほしい!
私はいつもそう思って
レッスンしています
私が31才で出会った
一生の恩人のように
私も
私に出会ってくれた全ての人たちの
人生を最高のものにしたいと
願っています
私が経験してきた全ての出来ことを通して
みなさんのお役に立てることを
みなさんのボーカルライフが
これまで以上に素敵なものであってほしい
私はこれからも
みなさんを全力で応援します