凡例
・2011年7月25日~2012年3月11日の間に、呟いたよしなしごとをまとめたもの。
・特に文脈もなく、並べている。
本文
昼の花火と 見紛うほどの 淡く花散る 百日紅
(2011.07.25)
懸案の原稿を
何とか脱稿。全然文章になってない… 何かしら意味ある文を書こうにも、手が動かない。自分の中で言葉と言葉をつなぐ何かが切断されている感じ。震災直後より良くなっているとはいえ、学術的な文章を書くモードにまだ戻っていない自分に愕然。仕方ないやと自らに言い聞かせねば、多分心が壊れるなあと愚痴…
とはいえ、地震以前からまともな文章書けていたのか?と突っ込まれると逃げ場がないことは百も承知ではありますが… ただでさえ少なかったボキャブラリーがさらに貧弱になってしまった自覚はどうしようもないです。何か哀しい (>_<) 了
(2011.0802.)
【入盆】 亡者至りなば 何をか哭かん 添いて微笑せん 放虎
(2011.08.09)
炎天下を3時間歩いたので、3時間寝ることにする。こんなのは、はるか昔に歩いた真夏のスペイン以来かも。あのとき、昼日中にマドリードの街中を歩いてたのは日本人観光客だけだったなあ。さすがにシエスタが必要だな、日本にも。
(2011.08.10.)
地震が起きた時間を、その時にいたコンビニで迎えた。追悼。調布は夕立が降り始めた。
(2011.08.11.)
武蔵野の面影を残すキャンパス内、今の時期は蝉が大合唱。今朝は早くも鳴き始めている。ということで、こちらもそろそろ帰るか… またも地震が起きぬよう、祈るしかない。そう、祈るしかないんだな。
(2011.08.12.)
過去というものはどこにも存在しないんだよ。 ふと
(2011.08.12.)
ナンデ コンナジダイニ ウマレアワセテ シマッタンダロウ? … ツナミノ アトニ ワラウ 狐火
(2011.08.14.)
たをやめて 闇に紅指す 小指かな
(2011.08.17.)
「雨夜の星」か… 心で見るものらしい
(2011.08.26.)
ひととせの なかばをすぎて さけあおる
(2011.09.11.)
どこぞへと ながるるままに 梅と百合
(2011.09.11.)
肩に落つ 涙の重さ 夏の海
(2011.09.11.)
なぜ会うた 灼けつく道の 百日紅
(2011.09.11.)
児を寝かせ 聞き入る虫に 秋の魂
(2011.09.11.)
腐るとも 我を抱きし 母の腕
(2011.09.11.)
このあいだ、京都で仕入れてきた話だけど、伝統的なお月見というのは、月そのものを見るのではなく、水に映した月を眺めるものらしいよ。
(2011.09.12.)
月を鏡に 満たす自我のみ
(2011.09.13.)
今日は11年11月11日という、誰が見ても分かりやすい日付だが、単純すぎてあまりにも芸が無い。もう既に過ぎた日付だが、その時に気付いていたかどうかという日付を紹介。1999年11月29日。これは数字がすべて奇数になる一番近い日付。次にこうなるのは3111年1月1日。
(2011.11.11.)
目覚むれば 八ヶ月目の 涙雨
(2011.11.11.)
しづなくて おだつ間も無く 月巡り
(2011.11.11.)
じじばばの 背中なでつつ 夢語り
(2011.11.11.)
涙とも 波ともつかぬ おぼろかな
(2011.11.11.)
時を置く 忘れがたくも そぶりのみ
(2011.11.11.)
仏かな 今ひとたびの 光る海
(2011.11.11.)
銭湯掃除
学生時代、目白台の銭湯で風呂掃除のバイトをしていたんだけど、そこは昔ながらの銭湯で、壮麗なペンキ絵が描かれてた。二年に一度ぐらい描き替えるのだが、一日で男湯・女湯を仕上げる技量はすごいなあと驚いた。あれも福島出身の方が描かれたのかなあ…
昭和一桁年代建築のその銭湯は、もうとんでもないレトロ。いつの時代の蛇口?という洗い場に、境目がまっさらになってしまった白いタイル張り。寺の本堂のような格子天井。そんで、お約束の瓶牛乳。閉店後の脱衣場で、バイト仲間と何度飲んだくれたことか。17、8年も前も昔の事。
夜の11時に銭湯は閉店したので、そこから掃除開始。女湯、男湯の順に掃除するが、クレンザーでポリッシャーかけてバケツでお湯かけて、たわしで蛇口洗って、という作業。慣れると40分ぐらいで終わる。お陰で自宅の風呂掃除は3分で終えられる。
そのバイトは一晩掃除して600円ぐらいになったと思う。いつそのバイト代をもらったかといえば、卒業するときにまとめてもらった。10万円ぐらいになったかな。金のためのバイトというよりも、とんでもない体験を色々させてもらった銭湯だった。
当時住んでいた目白台の学生寮は『ノルウェーの森』に出てきた寮のモデルだった所。だがその頃は、そんな雰囲気は微塵も無かった。で、銭湯掃除はこの寮の先輩に引っ張り込まれた。20年近く寮生が受け継いだ特別なバイトで、同期から3人が選ばれた。
デートした時、門限があったのは彼女ではなく私の方でした。銭湯掃除の当番日には10時30分にはスタンバイしなければならなかったので。携帯電話の無かった時代だから、ローテーションの調整は何かと大変でしたね。
その風呂屋の親父さん家族には、なにくれとなく可愛がってもらった。ともかくぶっ飛んだ家族で、若いもんの面倒見るのが大好きな親分肌の親父だった。残念ながら、2004年に亡くなられてしまい、恩返しできずじまいだった。
その風呂屋では、掃除後、学生には手の出ない食材の夜食を頂戴し、大層ありがたかった。今思えば、親父さん、なぜあれほどまでに若い奴等の面倒をみてくれたんだろう。教員になってから、自分も学生や後輩たちに同じようなことをしているが、とてもあの域には届かない。
なぜこんな思出話をしたかというと、銭湯のペンキ絵を描く職人さんが、もうじきいなくなってしまいそうだというニュースを見て、古い記憶が再生されてしまったから。このペンキ絵もそうだが、掃除後の帰り道に仰いだ深夜の東京の星空も忘れがたいものがある。 (2011.12.04.)
余談・銭湯掃除のアルバイトしていたとき、一年の中で、一番掃除するのが大変だったのが冬至の日のゆず湯の後。ゆずをそのまま湯船に入れてぷかぷか浮かべるんだけれども、数時間も経つと実が破裂して(誰かがつぶして…)、種と実がカオス状態になってしまう。その取り出し作業のしんどかったこと… 了
(2011.12.22.)
東大法学部卒という生き方
50代後半、東大法学部卒のカルチャーを背負った方と昼間から今まで飲んでいたのだが、まあ、何というか、現代日本の秀才と言われた人たちがこの歳になるまでどのようにして日本の中枢を動かしてきて、どのような後半生を送ろうとしているのか、その一端を垣間見た飲み会だった。
どういう世代の人かと言うと、その方の同期にいたのが福島瑞穂と故・中川さん。
東大法学部のスーパーエリートはつい最近まで、学部卒で助手に採用されて、他の学部の博士論文に相当する助手論文を書いて、大体それが生涯の業績になる。東大法学部の教授に対して外部評価など誰ができるの?という発想が通常。(同じ東大卒でも、私は駒場という所の卒業なので、全く文化が違う…)
で、話を聞いたその方の世代になると、同期に大臣が二人もいたわけで、官僚になった同期組はその下に着く。だが決して、昔の話をすることはない。当然といえば当然だけど、でも、あらためて感心した。(小市民だなあ…)
法学部で民間の一流企業に就職したメンバーでも、社長・会長予備軍として残ってるのは、その方のクラスの中でもただ1人。昇進の途中、上司の尻ぬぐいで逮捕歴のある人もいたなあ、と思い出話。そんで、そういうときは、やはり東大法卒の検事に取り調べを受けるんだよね、と笑えないような笑い話。
因果関係が本当かどうか分からない、今日聞いた話。「俺たちの同期で、司法試験に現役合格したヤツがいてね。…そんで、裁判官になったんだけど、とてもじゃないけど常識を疑うような判決を連発したヤツがいたのよ。そのすぐ後に陪審員制度ができたけどね。」ウーム………
今日話をお聞きした方も、法学部の順当な路線からはドロップアウトされたので(失礼… m(_ _)m)、ルサンチマンと第三者的な視点を両方持たれていると思った。この現実を否定はできないので、一定数の官僚と企業人を社会に送り出している東大法学部の様相を歴史的に検証すべき必要性を感じた。
余談。「入学当初、日本を変えていかねば!と純粋に考えて法学部を目指してきた彼らが、どうして日本の進路を誤らせてしまう結果を招いてしまったんだろう?」と、今日、一緒に飲んだ方の発言。
余談2。先ほどからの東大法学部クラスタの話。「省庁の次官クラスに期待をまだ持っている我々の世代の連中はね、○○○大学の教授の口を紹介しても満足しないんだよね。露骨に態度で分かるし。。。」て、ふざけるな、と言いたかったが、グッと我慢 (^_^;) 了
(2011.12.18.)
占いについて
前も言ったことだけど、自分達が滅びることを予言できなかったんだよ、マヤ暦って。。。 (^-^;
次はどんな占いネタが世間に登場するのかな~
だいたい、方角だろうが姓名判断だろうが血液型性格判断だろうが、今度の震災に遭ってその無意味さを感じ取れなかったとしたら、もう何を言ってもムダね。あ、血液型の知識は輸血の際には必要だね。
私は占いは端から信じないけど、占いの歴史研究は大事だと考えている。
最終判断に迷った時、コインを投げて裏表で決める行為は、占いではなく、判断する行為を外的な自然現象に委ねるという理解でいいのかな。。。 了
(2011.12.23.)
昼も夜もそうなんだが、新宿駅を歩いていると自分がシロアリになってしまったような気分になる。シロアリには申し訳ないが…
(2011.12.25.)
餅つき
今日は、ふとしたご縁でこの12年くらいお世話になっている、東大のK先生のお宅の餅つきの手伝いに、息子を連れて、行ってきた。K先生と私の専門は全く縁が無いのだが、不思議な人脈の繋がりで、毎年年末の餅つきの時だけ、お邪魔している。
K先生のお宅は、都内では今時珍しく、年末に一族総出で、十数升分もの餅を用意される、昔ながらの餅つき。去年の餅つきが本当に昨日のように、あっという間に感じられたこの一年であったと、あらためて。お年寄りの皆様はお元気で何より。子供たちは確実に一年分大きくなっている。
さすがに臼と杵を使った餅つきは重労働で、餅の返しと杵つきを5回もやるとダウンする情けなさ。大災害の起きた一年であったが、こうした庶民の年中行事を続け、思いと気分を新たにすることの大事さを今更ながら考えさせられた半日だった。そうそう、2日後ぐらいに筋肉痛がお歳暮として届く予定です。 了
(2011.12.25.)
普段の年末は、郷里の冬枯れした田畑の中を歩くと、本当に何もない、世界の情勢から隔絶された東北の片田舎を感じて心安らいだのだが、今年ばかりはそうもいくまい。あの大地が人々の意識の中にしっかりと刻み込まれている。よもやそんな事態になろうとは。
(2011.12.26.)
江戸の日暮。岩波書店からぶらぶらと歩き、大久保彦左衛門の屋敷の脇を通ってお茶の水へ。大学病院の病棟が夕日に染まる。
(2011.12.26.)
今、電車で座ってる席の隣の女性も宮城県出身らしく、もう一人に地震の様子を語られている。うん、このタイミングで、「そうだよね~」などと話しかけたらただの変態。。。 やめておこう <(_ _;)>
(2011.12.26.)
2011年大晦日
赤い柿の実だけが枝に電飾のように残る、大晦日の午後。
そういえば、関東で正月を迎えるのは、十数年ぶりかもしれない。。。
この30年近く大晦日の晩は決まって、一人部屋にこもり、じっと夜の闇を見つめていた。たいした理由もないのだが、一人になっているのがどうも落ち着くらしい。そして、この年を振りかえる。
ボロ俳句でもひねるか。。。
晦日に月は 見えねども 半ばの夢を 紡ぎ照らす夜
ひたひたと 水辺を歩む 童子らの 名を問いかけて 振り向けば おらず
山百合の 花弁ひとひら 海に消え
亡き友に 手向く梅ヶ枝 闇を背に
はなびらも なみだもおちて 海しずか
鎮魂という思いは
永遠に対するはかない人間の輝きなんだ
あと数分で一年が終る
そしてこの数分で人間は
すべての人間のことを思いやれる
それが鎮魂だ
了
(2011.12.31.)
地名ネタ
一関の人に聞いた話なんですが、宮城県北で有名な観光地・鬼首(おにこうべ)に対して、一関市内には鬼死骸(おにしがい)村があったそうです。これは昔、退治された鬼がいて、首の飛んでいった所が鬼首、胴体の残った所が鬼死骸なんだそうです。
正月なので、鬼退治ネタでした (^-^) 了
(2012.01.01.)
桑茶
今年最初のお茶は、前回の南三陸町訪問の時に購入した桑茶を煎れました。舌の先に桑の葉の香りがしばし留まるような、不思議な感覚を味わえるお茶でした。おすすめ。
桑茶を二煎目。玉露のようにアミノ酸的な旨味ではない、丸みのあるお茶。南三陸町だけでなく、気仙沼周辺でも作っているのかな?ぬるめでも高温でもよさそう。もっとポピュラーになっていい特産品だと思いますよ、これ。 了
(2012.01.01.)
そういえばさっき、うちの義理のばあさん、普通に雑煮の餅を食べてたな。。。家族としてはもっと注意してあげるべきだった。数えで102歳になる人だからなあ。
(2012.01.01.)
自分の書いた歴史研究書のネタが歴史小説のネタに転用され、さらにそれが映画化されて公開される。そんでもって、今電車内で、その主演俳優・女優の間柄を憶測する週刊誌記事の見出しを見ている。人生、不思議な縁で繋がっている。。。
(2012.01.07.)
何やかや、あれこれと、そこはかとない気分だけを漂わす夢から覚めれば、なすべきことに溢れる今宵、まよわず職場に泊まる。
(2012.01.17.)
雪の日に
んががが。雪降っとる。。。 今夜は10時ぐらいに帰るか。首都圏の鉄道は脆弱だからなあ。あ、でも、数年前の降雪の時、京王線は電車を止めず、終夜運転したという実績があるんだよね。とはいえ、JRが止まればおしまい。
明日の朝の楽しみは、沿道の真っ赤な実を付けたピラカンサスの枝に、白い雪が積もっているその紅白の姿を眺めること。て、今はそんな余裕なさそうかな。
今の雪の感じはボタ雪で、地面でビチャビチャになってます。降り加減は中ぐらい。気温は雪にしては生暖かい。さすが関東。
町に近い場所で、雪夜の楽しみは、雪明かりかな。宮城にいた頃は、七北田川の土手の上から雪原の向こうに見える仙台の街並みを眺めたもの。辺り一面がほの明るく、街が白い平原に浮かぶ姿は幻想的。 了
(2012.01.23.)
中国茶
今向かいつつある護国寺は、学生時代の地下鉄の最寄り駅。江戸時代後期に、この駅のある音羽界隈には、経世家・和算家として有名な本田利明が住んでいた。彼の墓も同町内の桂林寺にあったのだが、関東大震災の時の区画整理で、行方不明になってしまったらしい。残念。
素敵なお茶会に参加させていただいた。年代ものの中国茶(黒茶)を煎れていただき、心ゆくまで堪能。自分が生まれるはるか前に作られた発酵茶を味わい、恐らくそれを作った中国の職人さんたちが世を去っていることに思いを馳せる。不思議な縁を感じさせるお茶。もちろん、絶品。また味わいたいです。 了
(2012.01.29.)
子供の名前
絶対誰も読めないだろうと思って名付けた娘の名前が、後に、徳島県内の温泉名にあったことを知り呆然。ああ、あれから十数年が経過した。
ついでに、息子の名前も絶対読めないものにしてしまった。多分、姉・弟共に、歴史上初めて出現した名前である。親父の名前が、同姓同名があまりにも多いので、それ対する反動だったと自己分析する。 了
(2012.02.01.)
日付が変わったところで、20000個目のツイート。一年経たずにここまできたか。。。
(2012.02.05.)
田舎の話
東京に出るまで都市近郊農村部に住んでいたから、農作業は何となく見ていた。被災地の農家の方の苦労も想像できるが、全く知識がないと想像すら無理だろうなあ。都会育ちの義母を初めて田舎に連れてった時、冬枯れした田圃を見て「ここは何ですか?」と聞いたものなあ。因みに彼女、理系の大学教授。
まあ、先ほどの話は、それぞれが見知っている世界についてはもっともらしいことを言えるけれども、知らない世界の方が圧倒的に多いことを忘れちゃいかんということも含んでいます、もちろん。 了
(2012.02.07.)
思い起こせば、今の勤務先には2000年に着任したので、ちょうど一回り、12年分の講義を終えたことになる。さて、と我が身を振り返る。道半ばの思いは常に消えず。
(2012.02.10.)
初めての町で、特に行くあての無いときは、図書館をのぞくことにしている。職業柄、一番落ち着く場所だし、何より、町の情報と雰囲気が分かる。旅先で図書館、いいものですよ。
(2012.02.11.)
英国暮し
20代最後の年にケンブリッジに半年ほど滞在したのだが、そのわずかな期間に3度も、「お前は成人か?」とバブで聞かれた。アジア人は年よりも若く見られるとよく聞いていたけど、あのときに初めて実感した。。。え?今はただのおっさんですよ、もちろん。
イギリスに住んでみると、ある世代以上のご婦人はどことなくエリザベス女王に似てるなあ~、と思えてしまった不思議。
イギリスの下宿で世話になったおばさんが、予想通りの訛った英語で、例えばtodayを「トゥダイ」と発音するのを聞いて、ああ、これは仙台弁と全く逆だ!と気がついた。aiを「エ」と言うのが仙台弁。イギリスまで行って、何を納得してたんだよ!俺は
そういえばダイアナ妃(元)が事故死した時もイギリスにいた。その朝に町を歩いてたら、やけに半旗が立ってるな~と不思議だった。日本の家族からのメールでその事故を知る。時差の関係で日本の方の報道が早かったんだな。でもケンブリッジは特に変わりなく、普通の時間が流れていた。 了
(2012.02.18-19.)
夢忘れ 今宵の月も 美しく
(2012.03.01.)
幕末や明治初期に、下岡蓮杖やF.ベアトが撮影した古写真を見るのが好き。当時の人々が生き生きと写されている。特に、写真の中で無邪気に笑う子供たち。この後、この子達はどんな人生を送ったのかな、と、ふと考える。激動の時代を無事に生き延びただろうか、と心配してしまう歴史家の性。
(2012.03.03.)
弥生の十一日と 空に描いた 文字の姿が 白い椿の花弁となり ホロホロと 落ちていく 夢を見る
(2012.03.11.)
これより黙祷。目を閉じる前に仰いだ空の白雲に、万感を込め。調布にて。
(2012.03.11.)