4・「ふんばろう」は国際モデルとなり得るか?:吟味と批判


さて、著者の目標は「ふんばろう」の実践を災害支援の先進国モデルとして提言すること(「はじめに」や第8章などの諸提言)になろうが、そもそも、実践の一事例をいかにして一般的なモデルとしてまとめることができるのであろうか。


※「[「ふんばろう」の]スキームは、今後世界各地で起きる災害の支援モデルとして役立つポテンシャルを備えていると言えるでしょう。」(p.7.)/「日本赤十字社主導で、「Fumbaro Japan Model」を世界に広めることができれば、先進国における災害に関する支援活動を一つ上のステージに押し上げることも可能になるだろう」(p.278.)


モデルとしてまとめ上げる以前の段階として、「ふんばろう」そのものが方針転換をしなければならない点があると、評者は考える。以下、幾つかの観点から「ふんばろう」と本書の記述に対する批評を試みる。


(1) 反行政志向


著者が執拗なまでに批判をするのが、被災者支援の邪魔になる(と著者が考えている)行政の対応である。至る所で著者は、行政の融通のきかなさ、硬直的な体質をあげつらう。


これに対抗するべく、著者が自らの支援活動を推進するために採った手段は、行政のトップに「鶴の一声」をかけてもらうことであった。次のように述べている。


「組織の上に言いつけて、担当者を叱ってもらうことにより、こちらの提案を拒否することの「取引コスト」を増大させた[ことを相手に理解させる。] …… このように下から言って「のれんに腕押し」状態になった場合には、国会議員や地元議員の力を借りて、「上」から話を通したほうが速いことは少なくなかった。」  (p.86.)


著者は、状況打開のためにはコネを使ってでもトップ・ダウンの決定をさせることを推奨しているわけである。ところが、別の箇所では、完全に正反対のことが述べられている。


「僕は、状況をトップダウンにコントロールしようとは思っていなかったので、『こういうやり方をすれば、こういうことができます』ということだけ[「ふんばろう」では]示していたんです。」  (p. 167.)


ともあれ、「行政」的なボランティアへの応対、行政そのものに対する著者の反発は尋常ではない。「家電プロジェクト」をひととおり説明した第4章の末尾では、暗に行政のことを指して「腐敗した組織」(p.152.)という文言まで記している。


行政の敵視は個人的な信条としてだけならば結構であるが、支援活動の局面打開のために、行政のトップをつかまえてトップダウンに指示を出させることを著者は実践する。これでは結局のところ行政を「利用」していることに替わりはないわけで、この行為が持つ欺瞞性を著者はどのように理解しているのか、評者には見当もつかない。

今回の震災直後には、行政機能が完全に麻痺した自治体が続出した。行政職員も多かれ少なかれ、被害を受けた被災者ばかりである。


緊急事態を迎えていたのは被災地自治体ばかりではなく、後方支援・対口支援に当たった被災地外の自治体も同様であった。ただでさえ支援活動に限られた資源や人員を割かれ、てんやわんやの状態であるときに、一々のボランティア団体の面倒を当事者に求めることはあまりにも非常識であろう。このような点についての配慮もなく、現場を攪乱するかのようにトップダウンで全てを押し切ろうとする「ふんばろう」の態度は、迷惑以外の何物でもあるまい。


ボランティアは自己完結が基本とされている。なぜ、「ふんばろう」は実績のある大規模ボランティア組織と連携し、あるいはそれらと協働する体制を組む選択肢を選ばなかったのであろうか。評者が「ふんばろう」の運営方針に疑問を持ってしまうのはこの点でもある。


類似の問題は他の被災地現場にもしばしば見られたようで、既に災害支援団体と行政の関係についての一般的な注意はなされている。



「ボランティアが行政に搦め捕られないように警戒感をもつのはわからなくはないのだが、しかし、それが行き過ぎると、行政や社協との間のヘゲモニー(覇権)争いに戯れているだけのように見えてしまう。」   (新雅史、pp.218 - 219.)



ボランティア団体と行政(あるいは社協)は、常に対立的な構図に陥るという固定観念を持つのは危険であるし、その観念を悪用して関係者を分断してしまう輩も現れかねない。


「行政を介することのない」支援を実現するためには、行政に常に悪役となってもらわねばならない「ふんばろう」にとっては非常に不都合な真実であろうが、行政と見事に連携して成功を収めたボランティアもあった。しかもそれは一大支援拠点を形成し、宮城県石巻市内で稼働していたのである。中原一歩『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』が紹介する「石巻モデル」である。


石巻市では市の災害対策本部と、各団体ボランティアが参加する石巻災害復興支援協議会、そして石巻市災害ボランティアセンターの3者が連携して、主として旧石巻市市街地でボランティア活動を展開した。(活動拠点は石巻専修大学。)ピース・ボートをはじめとするボランティア団体が、市の災害対策本部や自衛隊と同じテーブルについて、ボランティア活動を実現させたことは、「ふんばろう」の反行政的姿勢を木っ端微塵にしてしまう一例であろう。瓦礫撤去などの作業に従事したボランティアの総数として、この支援体制「石巻モデル」は「のべ10万人のボランティアの受け入れを実現」(中原、p.86.)したのである。


このように行政と連携しつつ一定の成果を上げた「石巻モデル」であったが、おなじ石巻市内で家電配布などを行った「ふんばろう」の代表=著者は、このモデルについて一言も言及していない。(ピース・ボートの設立者、辻元清美氏と接触したことは述べられている。「はじめに」)週刊誌の記事にも取り上げられたこのモデルは、ボランティアの現場界隈では有名になったものであり、これを参考としないボランティア組織は一体どういう了見であろうか、とその見識を疑いたくなる。


万が一、この「石巻モデル」の存在を著者が全く知らなかったのであれば、「ふんばろう」という組織は、被災地で活動をしている大規模支援団体についてろくな情報収集もせずに自分勝手に動いていただけ、という不本意な評価も下されてしまうだろう。実際に「石巻モデル」関係団体と連携をしていたのならば、読者に誤解を与えないためにも、正確にその点について記載すべきである。


このように、「反行政」を打ち出す支援モデルを海外に提案したいということ自体が、評者には正気の沙汰とは思えないのである。後に述べるOECD加盟国が推進する統一的な教育政策の元となったDeSeCoプロジェクト一つをとってみても、「反行政」と言った時点で検討の対象にすらならないことは明白なのである。



(2)「自宅避難者への支援は皆無」だったのか


もう一点、「ふんばろう」が支援活動において強調するポイントがある。それは「行政や日本赤十字社からの支援が届かない在宅避難者」の存在である。そのような被災者に「ふんばろう」は物資支援を提供する。

さてここで、このような在宅避難者に対して支援活動を大々的に実施したのは、今回の震災の被災地では「ふんばろう」だけであったのかどうか。本書の随所にまとめられている「ふんばろう」の実績報告を見る限り、これ以上の支援規模は他には無かったような印象を読者は受ける。では、他のボランティア団体はこの状況に指をくわえて黙って見ていたのか。この点が本書の記述の信頼性を左右することは言うまでもない。


事実は、「ふんばろう」よりも大規模な支援活動を現在も展開している公益法人が少なくとも一つある。FIDR(公益財団法人 国際開発救援財団)である。( http://www.fidr.or.jp/activity/tohoku.html#110722 ) 同財団の支援実績 ( http://www.fidr.or.jp/activity/images/tohoku_report.pdf ) を見ると、その規模に眼を瞠らされる。(ここでは支援規模を示す数値の詳細については述べない。)このFIDRは、今回の震災に際して岩手県内の自治体と連携をして支援を進めた団体である。さらに、上記HPには次のような記載もある。



「岩手県沿岸部の8市町村の「仮設住宅」および「公営・民営住宅」に入居された約7,000世帯に、扇風機、掃除機、暖房器などを提供しました。また、同県沿岸部8市町村の「在宅」被災者にも石油ファンヒーターを提供しています」


つまり、FIDRはしっかりと「在宅」被災者にも物資支援を行っている。そこで生じる疑問は、なぜこのような実績もあり、より効率的なノウハウを持っているはずの支援団体と連携する選択肢を「ふんばろう」は採らなかったのか、ということである。わざわざ個人労働的なボラを強行してまで家電プロジェクトを継続する意義はどこにあったのか。(「石巻モデル」と同じように、この団体の存在を知らなかったとしたら、それはそれで恥ずかしい。)


さらに言えば、FIDRは現地自治体と明確な連携体制をとっている。「行政や日本赤十字社の支援の届かない在宅避難」という枠組みは決して固定的なものではなく、その時々のマンパワーや自治体側の状況によっていくらでも可変的であったことをこの事例は如実に物語っている。そもそも著者の持論に従えば、それこそそのような在宅避難者を救うために、行政のトップに鶴の一声を求めれば良かったのではないかと評者は思うのである。


(3)組織の脆弱性と無責任体質


「ふんばろう」の組織論を検討していく過程で、特に問題視されると評者が考えているのは「組織の脆弱性と無責任体質」、そして次に述べる「独善性と内向性」である。



先に引用した中原は、次のような問題提起もしている。被災地でボランティア団体が行う「ニーズ調査」に関するものである。


「[ピース・ボート現地責任者、山本の発言]「ボランティアと被災者の関係というのは、過度の期待をさせてはいけないのです。個別のニーズを拾えば被災者は明らかに期待を寄せます。しかし、結果として何も解決されないケースが多いのです。この繰り返しが被災者を疲弊させ、ボランティアに対する猜疑心を生む原因になるのです」
山本は、「ニーズ調査」は大切なことだが、それをやるボランティアは、その後の解決までを責任として果たすべきだと語っている。逆説的に言うと、解決のできない、必要以上のニーズ調査はやるべきではないというのが山本の考えだ。
「ボランティアは物事を具体的に解決する集団。当然、責任も生じる」」        (中原、p.195.)



この指摘を傍らで見つつ、はたして「ふんばろう」は被災地でのニーズ調査に対して責任が持てるのか否か。著者は次のように、石巻において思い付きで始めた「ニーズ調査」について述べる。


「「家電プロジェクト」と心理的なケアを連動させる方法を思いついた。……家電に返信用ハガキをつけて、
「□ 家族や自分が心の問題を抱えているため専門家から連絡が欲しい」
といったチェック項目を設け、それに該当する人には、専門家から連絡してもらうのである。」

(pp.147 -148.)


一方、そのニーズを受付けた組織の側の内部事情はというと、


「[ふんばろうの]特に特徴的なのは、リレーのようにメンバーが入れ替わっていく点だ。もちろん、最初からずっとふんばり続けてくれる人も多いのだが、その一方で、ある局面を大きく切り拓く働きをしてから、すっと消えていくような人は少なくない。」  (pp. 258 - 259.)



と著者は述べる。


つまり、「ふんばろう」では入れ替わり立ち替わりメンバーが替わっていく。(各プロジェクトの代表すら替わっていくようである。)そのような組織において、上のような方法で収集された個人情報は、厳格に保護されるのであろうか。この事案に対して誰が責任を負っているのか。誰かが個人情報を持ち逃げした場合、「ふんばろう」はそういった方面の問題に組織として責任を持てるのであろうか。これらが評者の危惧する点である。かようにデリケートな事柄を気軽に書いてしまうあたり、著者の問題意識の欠如が見て取れると評者は判断する。


これに対する答えとなるかどうか、著者は次のような発言もしている。


「リスクは、それが生じても飲み込む覚悟さえ決めれば何とでもなる。」  (p.213.)


あまりにも無責任な精神主義である。どうもその程度の認識で著者は、数々のプロジェクトを思い付きで立ち上げてきたのではないかと思わされる。極めつけは次の言葉であろう。



「元々何もなかったのだし、税金も使っていなければ、給料ももらえないんですから、守るものなんて、[ふんばろうには]ないんですね。被災者支援のためのプロジェクトなのに、ごく一部の批判を気にして、助けられるたくさんの人たちへの支援をやめてしまったら、某行政と同じになってしまいます」  (p.183.)


極端なことを言ってしまえば、「ふんばろう」には個人情報保護の責任もなく、被災者に対する事後の責任も無いということになるのであろうか?

さらにこの最後の発言から伺えることは、著者の中には微塵も、行政機能を補完して連携するという発想がないことである。「ふんばろう」には失うものが何も無い以上、やめようと思えばいつでもやめられる。しかし、行政は最後まで住民に対して責任を負っている。この違いを著者はどのように心得ているのであろうか。

逆に、住民が支えてこそ被災地の行政は機能をし始める側面もある。従って、緊急避難の段階を過ぎたならば、地域住民は行政機能の回復を求める。それを支援することも立派な被災者支援となる。現行の法体系を否定することがその人の信条でもない限り、機能麻痺した状態の行政を無造作に敵視することは、ナンセンスである。それでもなお、住民に対する理不尽な対応が行政の側から生じたのならば、あくまで住民の発意による請願・陳情・申し立ての道を探るべきである。その場合、無用の混乱を引き起こすだけであるから、ボランティアが現地の問題に関与すべきではない。


なお、著者は「支援をやめてしまったら……」という心配を持っているようであるが、それは無用であろう。特に「ふんばろう」が無くとも、替わりになる受け皿はいくらでもあるわけで、これはこれで、現に被災地で活動をしている他のボランティア団体に対して失礼極まりない発言である。


(4)独善性と内向性:他者の排除


もう一点、組織論、マネジメント論として主張されている事柄について、疑問を持たざるを得ない事柄は、「ふんばろう」が執拗なまでの独善性と内向性を抱えていることである。著者の次の発言を見てみよう。


「どんなことをしていても批判する人はいますし、失敗する可能性もある。だから、常に完璧を目指すのではなく、『5%は大目に見よう』と」
「[失敗を]ゼロに近づけようとすると、リスク管理に膨大なエネルギーを割くことになって、とたんにパフォーマンスが下がるんですよ」  
(p. 184.)


一方、これについてもまた、内容が全く相反する発言が見られる。


「それでも、必ず勝たねばならない勝負所というのはある。 …… [ふんばろうという組織の運営において]大きな局面での失敗は許されないと言っていい」  (p.252.)


これらは一見すると、「他人に優しく、自分に厳しい」態度と映るかもしれない。しかし、著者がプロジェクトの「代表」である点を考慮すると、その解釈は全く異なったものとなる。


これらを字義通りに読むと、著者が代表の立場として打ち出すプロジェクトでは、外部からもたらされる失敗可能性の批判を「5%の許容範囲だから」と拒絶することができる。他方では、自分が率いる組織(ふんばろう)の中の人間に完璧を求め、失敗を許さない態度表明が同一人物の口から語られている。自分が持つ価値観以外のものを認めず、誰からの批判も受け付けないような独善を許す心理構造が背後に隠れているように見える。

そもそも「5%は大目に見よう」などという態度自体が、リスク管理の現場にいる人から見れば噴飯ものであろう。要はこの組織にはリスク管理部門が無いに等しいことをさらけ出してしまったわけであるから。

さらに「ふんばろう」の内向的な性格を示しているのが、「トラブルを減らすための7か条」(pp.225 - 230.)である。



  「トラブルを減らすための7か条」[條目のみ掲出]
(1)質問は気軽に、批判は慎重に
(2)抱えてから揺さぶる [「抱えて」は「相手を認める」ことらしい]
(3)集中攻撃に見えるような言動は慎みましょう
(4)初めての参加者も見ています [だから相手を威嚇するな、ということらしい]
(5)電話や直接会って話しましょう
(6)休むこと
(7)被災者支援を目的としている人はすべて味方です


この7か条は、著者が「ふんばろう」のメンバーに組織運営の要諦・秘訣として周知させたものとのことである。ここでは一つ一つについてのコメントは差し控え、この7か条が「ふんばろう」組織内部にのみ向けられたメッセージであることに注目したい。


これらの原則が「ふんばろう」の外部に対して全く適用されていないことは、本書を通読すれば即座に了解される。いや、外部に対しては全く逆の行動原理で「ふんばろう」は動いている。

「集中攻撃に見えるような言動は慎みましょう」「被災者支援を目的としている人はすべて味方です」というこれらの条文は、行政に携わる人々(彼らも広義の支援者であろう)に対して適用されない。現に、行政を敵対視しているし、慎重ではない批判もしている。つまり、組織の内と外で異なる行動原理に基づいて、「ふんばろう」は一々の局面に対処している。

このダブル・スタンダードの発想が「ふんばろう」にある限り、行政との連携はもちろん困難であろうし、「慎重ではない」批判を投げかけてくる外部団体との連携は拒絶するのであろう。これがすなわち、評者が「ふんばろう」を「独善的」「内向的」とみなす主因である。

この評者の判断は、次のような発言が著者によってなされていることからも、補強された。家電プロジェクトを立ち上げたときにスタッフとの間で交わされたやりとりである。


「最初に「家電プロジェクト」を実施しようとしたとき、「ふんばろう」の現地スタッフからも、「公平に家電を渡せなければ、問題が起こる可能性があるからやめてほしい」と強く言われたことがある。
僕は「僕らの目的は被災者支援です。問題を起こさないことが目的ではありません。被災者支援が目的である限り、やめるという選択肢はないです」と説得することでわかってもらうことができたのだが、このように「被災者支援」が目的なはずなのに、いつのまにかそうではないことに「関心」がすり替わってしまうことはめずらしくないのである。」  (pp.202 - 203.)


著者のこの発言の無意味さには唖然とするより他あるまい。この融通のきかなさは一体何だろう?だが、既に「7か条」で見たような意識を前提とするならば、(部外者には理解不能かもしれないが)著者だけに通じる論理は一貫している。

これから実施するプロジェクトの結果として発生するリスクや、影響評価に対する懸念を、著者は「「関心」がすり替わ」ったものとして切り捨てる。この認識の仕方にこそ問題が潜んでいる。

結局、著者自身が設定した目的=「被災者支援」は説明・解釈の必要が無い不動の価値観に支えられているようで、他者からの批判を受付けないものと化している。簡単に言ってしまうと著者は、「人の話を聞く耳を持たない」のである。



(5) 構造構成主義

構造構成主義という学説を著者は震災以前から提唱されているが、本書で議論となるのはその学説の学術的是非ではない。支援活動の現場において、著者の信念を表明する以外に、この学説が機能していたかどうかが論点となる。この小論でも構造構成主義の学術的な方面での議論に立ち入るつもりはない。



さて、本書ではこの分野で用いられている学術用語が頻繁に使われている。評者の正直な印象を述べれば、冗長さ、面倒くささを感じるより他なかった。例えば、「お湯が沸いている」という誰もが分かる表現を、わざわざ「H2Oが沸点以上の温度に達したので、液体から気体へ状態変化している」と言い換えをしているような冗長さであると言えば分かって頂けるであろうか。

この方面での難解な語彙が幾つか本書では用いられているが、2つのキーワードについて、著者は簡単な言い換えをしている。「気持ち(関心)」「理由(構造)」である。(p.238.)本書に言及されている限りの内容について、構造構成主義に関わる主張をこの言い換えに従って評者なりに理解すると、


「状況と目的を見極め、相手の気持ち(関心)がそうなる理由(構造)を考えて行動しろ」


となる。大多数のボランティアは常々これを実践しているであろうし、あらためて学術用語を用いてまで言われる必要のない事柄である。むしろ、なぜそのような理屈(?)を、ボランティアを主題とする本書でしなければならないのか。著者個人の支援活動に対する信念の表明を妨げる積もりはないが、なぜこの説が支援活動のモデルとしてふさわしいのか。著者以外の実践論・支援論と比べて何がどのように違っているのかなど、基本的な情報が全く提示されておらず、結局、評者には未だにこの主張の必要性が理解できないままである。



誤解を招かないように再度繰り返す。

個人の自由に属する事柄である以上、特定の行動原理、主義主張を掲げてボランティア組織を立ち上げ運営することを否定しないし、排除もしない。今回の震災の支援現場では、宗教的信念に基づいて支援活動を行った団体もあるし(評者の見聞した団体は、直接、住民に現金を支援していた……)、特定の境遇に置かれた被災者のみを支援する団体もあった。同じように、特定の主義主張を掲げた支援団体の組織があっても良い。(ただし、違法行為に関わらない範囲で、という制約はもちろんある。)

しかし、自らの責任で支援活動をする以外に、ボランティア論や組織論としてその主義主張の一般性・普遍性をうったえたいならば、ましてや「ふんばろう」が先進国の災害支援モデルになることを目指したいのであればなおのこと、他団体との相違や比較を提示した上で、自説の妥当性を主張しなければなるまい。「被災地で一度うまくいったので、このモデルは有効ですよ」、という宣伝に乗っかる支援の現場責任者などおるまい。現実はそれほど甘くない。


(続)