昨日妹が現場作業の後、宮城県庁から多賀城まで自転車をこいでたどり着いた避難所。そこから引き取ってきた両親の肉声を、ようやく昨夜遅くに聞いた。


聞けば、実家のある新田地区の東方向に位置する育英学園高校近くまで、津波は届いていたらしい。思わず絶句した。直線距離にして、1.5kmもない。想像していたよりもさらに近距離まで津波は達していたことになる。新田地区から見て仙台港の方向にある国道45号線より向こうは、津波の被害が相当だったようである。


地形か建物の密度か、何が運命を分けたのかはまったくわからない。被害の甚大であった若林区であっても、同区の鶴代町にある弟のやっている企業事務所にはまったく水が来なかった。


そんなことが頭を駆け巡っているうちに、


父が電話口の向こうで、ひと時の間をおいた後、絞りだすようにこう言った。


「残念だが、  N伯父は 駄目だろう。」


若林区荒浜に住んでいたN伯父は、津波により今もなお安否不明である。そのときまで、信じたくはなかったが、父の言葉を聞き、覚悟を決めた。父は昨日の昼間、車を飛ばして現場に駆けつけた。しかし、家のあった付近はテレビ映像にもあったとおりの情景で、瓦礫の山とビョウビョウたる泥水の海が広がっていた。


荒浜をはじめとした宮城県南を襲ったあの津波。そのとき自分は大学の敷地内に避難し、学生のワンセグでリアルタイムに若林区の壊滅する姿を見ていた。一軒一軒の家が濁流に呑みこまれ、ビニールハウスが潰され、黒い水の舌が水田を舐めていくあの中に、N伯父をはじめ、何百人もの付近の人たちが流されていたと後で知ったときの驚愕と絶望感は、自分の中のすべてを粉々にしてしまった。


自分は遠く東京にいて、地区全部が壊滅し、肉親が不幸に見舞われているその瞬間を、電波を通じて見てしまっていた、この不条理、理不尽、残酷さ。だが、それは何かに対する恨みの発露ではなかった。今ここに生かされている自分の存在を、自分が自分に強烈に突きつけているという不思議な感覚。ITの発展は、被災者救助、通信連絡に威力を発揮していることは言うまでもないのだが、新しい哀しみの意識をも我々にもたらしてしまっているのかもしれない。


敢えてこの記事を著したのは、N伯父が生きていたという証を何としてでも残したかったからである。でももしかしたら、こんな記事を書いた後にひょっこりとどこかの避難所からN伯父が連絡をくれるかもしれない。それはそれで、私の早とちりを笑われるだけでいい話だ。笑われるだけですむなら何度でも笑われよう。うちだけでなく、そんな早とちりがすべての被災地で起こってくれるよう、祈っている。祈るしかない。